「持続可能社会づくりへの日本の役割」再考(その2)(内藤 正明:MailNews 2018年8月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2018年8月号の記事に、一部加筆修正を加えたものです。

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これまで私は、日本が歴史の中で培ってきた『限られた閉鎖空間の中で、それなりに心豊かに生きていく』倫理観・価値観こそが、地球閉鎖系での人類生き残りに役立つのではないかと何度か主張してきた。そのこと自体は間違ってはいないとまだ信じている。しかし同時に、日本社会にはもう一つ固有の特徴があって、それは世界の人々の幸福感に必ずしも通じるものではないかもしれない、ということが気になっていた。それについてもすでに言及してきたが、一言で要約すれば『自分を捨てて、所属する集団のために滅私奉公する』倫理観・価値観である。最近このことが顕在化した多くの出来事があり、改めて世界の人にもかなり広く知られるようになってきた。

この二つの特性は、どのような関係になっているのだろうか。不可分なセットなのか、偶々この二つが独自に出来上がって、結果として組み合わさっているのだろうか、というのが今回の課題である。もし不可分なら、日本人の価値観が、世界の人々が生き延びるための持続可能性に役立つとしても、世界の個々人にとっての幸せ社会とはならないことを意味する。もし、二つが切り離せるなら、良い方だけを提供して、悪い方はひっこめたらいい。しかし、世の中そうはうまくいかないもので、良いことの裏には必ず悪いことがくっついている。では、このケースはどうだろうか。このことを以下に考えてみる。

 

望ましい方の価値観(足るを知る)

今の人類にとっての危機は、経済や社会よりも地球環境の異常である。その原因は、飽くなき自然資源の収奪とその無節操な廃棄である。よって、この飽くなき欲望を抑えることなしには、それ以外のどんな対策も無意味であるというのが、私の前提である。

そこで、人類が、“真に持続する社会“に変わるためには、日本人の伝統的価値観と生活様式が不可欠だと主張してきた。その理由を、ヘレン・ミアーズ注1は、「狭く限られた空間の中で幸せを“装う”すべを身に着け、自足する文化を作り上げてきた。」と上手に表現してくれている。一方「無限の広がりを持った空間の征服を目指すアメリカ文明は、それとは正反対の価値観と行動様式を持っている」と言っている1),2)

なお、ミアーズ以前にも、幕末・明治期に日本に来た欧米の知識人の多くも同様のことを記述している。「逝きし世の面影3)」(2005年)の中で、渡辺京二氏が紹介しているエドウィン・アーノルド注2の記述は、「地上で天国か極楽にもっとも近づいている国。その礼儀正しさは謙虚であるが、卑屈に堕すことなく、精巧であるが飾ることがない。これこそ日本を、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と絶賛している。これに対しては、我らが横山俊夫先生は、「幕府が見せるたくないところは規制をかけたから」という意見だが、渡辺氏は「何年も日本に滞在した外人が、そのようなカモフラージュに騙された筈は無い」と反論している。ポール・クローデル注3は、「彼らは貧しい、しかし高貴である」と言ったそうだが、これはミアーズやアーノルドの言葉とも通底する。このような多くの称賛は、あの頃にもすでに、「凄いですね日本」があったのかと思わせるほどである。

このように、江戸の250年間は確かに世界でも稀な自給的「持続可能社会」であったことは、データ的にも確かである。したがってこの時の経験は、地球全体が閉ざされた有限の空間になったいま、その中で人々が自給しながら生き延びる知恵として役立つであろう。しかし、それはライフスタイルのハウツーではなく、その裏にある価値観・倫理観と不可分である。

そしていま人類持続のために、それ以外の道が見いだせなくなっているからこそ、日本が当時から培かい、未だ残っている倫理観が、人類生き残りの道を世界に示すことになるだろう。というのが、これまでの私の主張である。

 

望ましくない方の価値観

レジス・アルノー氏が2018年6月3日の東洋経済ONLINEのコラム4)で、「日本人のハチ公体質は人に不幸しかもたらさない」と発言している。彼が初めて日本に来た頃、海外特派員ブルノ・ビロリ氏が「いったいどんな国が犬を偶像化するのか」と不思議そうに言ったそうである。それは渋谷のハチ公のことだった。日本が軍国主義の道をたどっていた頃、ハチ公は主人への盲目的服従の象徴として人気になった。この銅像に彼は尊厳の放棄を見たという。ハチ公は主人にあまりにも忠実で、死んでも帰りを待つ犬の伝説は銅像にするのには安っぽすぎる、日本人にはもっとふさわしい崇拝の対象があるべきだと考えたのである。

日産のカルロス・ゴーン前会長は、「私は数々の組織や国の中で仕事をしてきたが、日本企業の社長がうらやましい。それは、すべての従業員と社長がつねに1つの目標を共有してつながっていることである。この忠誠心はとても強い」と言ったそうである。アルノー氏は「忠誠心が恐れや強制によるものであればそれは破棄されるべきだ。ハチ公は日本人にとって忠誠心のシンボルだろうが、忠誠心に対する行きすぎた信仰は危ない。これは特に、権威が重視されるスポーツの中で見られるが、国権の最高機関でも見られる」と、最近の日大事件を意識してそう言う。また「有能な公務員である柳瀬と佐川はあまりにも権威に目がくらみ、上司を守るために国民の前でウソをつこうとした。彼らはその忠誠心を政府や安倍昭恵夫人ではなく、納税者に向けるべきだ」「本来であれば美徳である忠誠心だが、上下関係の下では歪むことがある。そして、日本企業では、忠誠心は長い労働時間や不当な扱い、安い賃金を正当化するものとなっていることが少なくない」と述べている。これは我々も言いたいことではあるが…。

 

本当はどうか?

このような外国人の批判は、日本人には若干違和感のある部分がある。つまり、これは一神教を奉じる西洋人の解釈であって、多神教の日本社会ではその解釈は必ずしも当たっていないのではないかということである。市川惇信先生の説に依ると、多神教ではそれぞれの神に独自の正義があり、すべてに通じる唯一の正義は無い。このことは、個人にとって従うべき正義は、自分の属する「ムラの掟」しかありえない。したがって、公務員は“天にまします神”の教える教義のためではなく、省、局という一番身近なムラの正義のために一身を捨てて忠誠を尽くす。それが「滅私奉公」と呼ばれるものである。

今回の財務省の事例は、西欧人の価値観からすると、“権威か、餌に目がくらんだ”行為としか見えない。しかし、私欲のためにあれだけ社会に反する行為をするのは、日本人の美学ではない。恐らく、自分が属する組織「財務省ムラ」を守るために、“身を捨てて”頑張ったのではないか。現に彼らは個人として得たものより失ったものがずっと大きかったであろう。

侍の時代から、藩の存続・繁栄のために我が身を捨てるのが「滅私奉公」である。日本社会でこれが評価されるのは、この行為が私欲を離れて、他者(多くはムラや藩ではあるが…)のために尽くすという「利他の精神」に通じるからであろう。西欧的な論理では、「それが(天に在します)神の教えに反していてもか?」と追求するだろうが、ムラ社会に生きてきた日本人にはそのような神の教えはなくて、あるのはそれぞれの村の掟である。一神教の神に身を捧げるのと、村の掟に身を捧げるのは、「利他の精神」ということではほぼ同等であろう。

ただし、信仰する対象が、天に在します神は遠くで、そのご利益は期待しにくい。よく聞く物語では、虐げられた信者が、「神はこれほどの苦悩を見捨てるのか」としばしば恨みをいう。それに対して、「あの世で報われる」というのが一つの答えになっている。一方で、村の掟は天の神ほど遠くはなく、距離が近い分だけ滅私奉公の見返りの可能性は高い。殿のために身を捨てた侍は、その子供が家を継ぐことができて、時にはご加増を戴くというような話はよくある。

 

最終的には

このような批判を聞くと、その通りだ。直ぐに日本の教育方針もフランス式を参考に改革していかねば…という教育論議になるかもしれない。因みに、ここで挙げられている日本人のハチ公精神は、近年政府が目指す富国強兵路線にはうまくマッチするだろう。

ところで、日本の今の教育は、ムラ社会で生きていくための長い歴史の産物であるから、これを変えようとすると、一神教の教えを奉じるのかどうかというところまで遡る必要があるかもしれない。さらにいま、地球閉鎖系の中で人類持続を図らねばならないという、これまでの人類史でも初めての事態で、どう結論づけるのか。

結論的には、地球閉鎖系では、西洋流の「伸び伸び派」は、どうしても衝突するしかない。現にいまそうなりつつある。そして最終的には勝者だけが生き延びることになるしかない。一方、「ハチ公派」は、限られた空間と資源を分け合って、何とか共調して環境容量の中で生き延びるだろう。

こうして最終的に到達する世界の姿はどうか。結局は石油文明以前の欧米とアジアそれぞれの姿とほとんど同じになるしかないだろう。この間の150年余の人類進歩なるものは何だったかと自問自答したとして、その答えは、“石油の力で竜宮城の幻を一時だけ見たが、それが醒めて現実の社会に戻ると、荒れ果てた海辺に白髪になった自分が立っていたということではないか。この浦島太郎の姿は、「猿の惑星」の最後とも重なる。先の見える人には、人類の行く末がこれしかないということなのだろうか。

注1:Helen Mears(1900-1989)。1946年、GHQの諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日。

注2:Sir Edwin Arnold(1832-1904)。イギリスのジャーナリスト、随筆家、東洋学者。本文中の発言は1889年の来日時のもの。

注3:Paul Louis Charles Claudel(1868-1955)。フランスの詩人、劇作家、外交官。1921-27年フランス駐日大使に就任。

 

  1. ヘレン・ミアーズ (著), 伊藤 延司(翻訳):アメリカの鏡・日本 完全版 , 角川学芸出版, 2015.
  2. 内藤 正明:アメリカを鏡として見る-日本の社会と文化,http://www.kiess.org/mailnews_1606_naito/,KIESS MailNews 2016 年6 月号.
  3. 渡辺 京二:逝きし世の面影,平凡社,2005.
  4. レジス・アルノー:日本人の「ハチ公体質」は、不幸しか招かない -上下関係で成り立つような忠誠心は危険だ,https://toyokeizai.net/articles/-/223020,東洋経済ONLINE 2018年6月3日掲載.

 

(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)

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