理屈と膏薬はどこにでもくっつく(内藤 正明:MailNews 2011年8月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2011年8月号に掲載したものです。

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功罪はコインの裏表

いま日本の最大の話題は,原発の是非論でしょう。ところで,ある物事の是非を論じるときに難しいのは,どのようなことにも必ずプラスとマイナスがあるということです。ロケットが前に進むには,同等の運動量の排ガスを後ろに排出しなければならないというのが,自然の摂理(作用反作用の法則)です。工場が製品を作り出すときには,排ガスや廃水を出すのも同様で,「功と罪はコインの裏表」で,これを切り離すことはできないというのは不変の原理です。

どんな状況でも100点満点のものがあれば,それはそもそも議論の対象に上がることはないでしょうし,現実には自然の理からもそのようなものは存在しないと思われます。たとえば,乗り物のエネルギー消費は速度の二乗に比例しますので,どこまでも早くなればいいというものではなく,適切な速度がどこかにあるでしょう。良く効く薬ほど副作用が大きいことが多いので,どのあたりを選ぶかが「医者のさじ加減」として大事なところです。功罪を勘案して最適なところを選択するのはどのような分野でも同じです。

 

長所は短所でもある

ものごとには「長所は短所の裏返し」という側面もあります。“陰気で、影の薄い”と言われている人物も、仲人口なら“落ち着いて、もの静か”と表現するでしょう。それはどちらも嘘ではなく、見方の問題でもありましょう。よく街並み評価などの研究で、“活気がある”―“うら寂しい”という形容詞を両端において、尺度を付けて、この商店街はどの辺りにあるかというアンケート(セマンテイック・ディファレンシャル)調査がされることがあります。しかし、これではその街の特徴を見出すことにはならないというので、“うら寂しい”の代わりに“静かで落ち着いた”という、プラスの評価語を選んで、街の特徴を抽出してもらおうと試みたことがありました。まあ、モノは言い様だね、という反応もありましたが、それなりの意義を認められて論文になった記憶があります。

いましきりに言われるのが人と人の「絆」の大切さです。しかし,これまで若者が村から都会へ飛び出した大きな理由の一つは,古い村の「しがらみ」から抜け出すことだったのではないでしょうか。それをある専門家は「農村共同体の呪縛からの解放」というような表現をしていました。しかし,解放が行き過ぎるとそのマイナスが目立ってきて,いまや人とのつながりの無い「無縁社会」とさえ言われるようになってしまいました。昔の“しがらみ”がいまや“きずな”と名を変えてカムバックしてきたのは,必然性があるのだろうと思います。ただし,それがまた行き過ぎるとまた“呪縛”などと呼ばれて,嫌われるでしょう。“きずな”と呼ばれる頃合はどのあたりか,見つけるかの匙加減がここでも大事になるでしょう。

 

ああ言えば、こう言う

これらのことから得られる教訓は,ある主張をすると必ず反論がありうるということです。「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」という昔の人の箴言?は,真理を突いているといえましょう。国会論争を聞いているとその感を深くしますが,あれは議員として,「相手が自分の主張の欠点を突いてきたとき,そのことは無視して,自説の長所をひたすら言い募る」,または「その欠点は,見方を変える,または異なる立場の人たちにとっては良いことなのだと主張する」というレトリックを身に付ける訓練をするのではないかと想像しますが‥。

いまの「原発か自然エネルギーか」の議論もその一つの典型です。どちらもが,自分の主張する側の長所を強調し,相手の短所を強く批判しています。聞いている方は実情が分からないので,えてして声の大きい方が正しそうに思ってしまいます。全体を知らずに,部分的な知識に固執している人ほど,迷い無くそのことを言い立てるので,聞いている人はその迫力に納得させられます。「無知は力なり」(そんな言葉は無かった?)という現象がしばしば起こるのは,このためです。

 

功と罪は誰に

功と罪が常に表裏一体という側面に加えて,議論を一層困難にするのは,利益を得る者と不利益を蒙る者が同じではないことです。原発では巨大な利権を手にする「原子力村」,さらにその中でも特に「核家族?!」が,これまでと同様に必死でその利点を強調し,自然エネルギーの欠点を批判しています。単に批判だけではなく,権限を使ってあらゆる妨害やネガテイブキャンペーンをしてきた事実が暴露されました。

放射能リスクはタバコを日に10本吸っている人の発ガン発症確率と同等ですと言われて,納得できにくいのは,タバコはそのリスクも効用も自分が引き受けて,功罪を秤に掛けて納得して選択できますが,放射能はそのリスクと効用を引き受ける者が違っていることが問題です。

また,“確率”というのは,普通の人が理解するのは難しい概念です。しかしそれも表現次第で,「避難区域にある老人病院の患者が,立ち退くことによる死亡の確率は,そこに残って放射能で死亡する確率より大きい」と専門家が言ったとすれば,患者自身がリスク確率によって立ち退かないという判断も可能だったかもしれません。

 

本当の選択過程をどうする

本当は,あることの是非を論じるときには,その長所/短所の両者を比較考量する「科学的な評価(真)」と共に,それら功罪が誰にどのように配分されるかという「社会的な評価(善)」の両面から判断して,その結果を皆で選ぶというのが筋でしょう。これは大変困難なプロセスですが,我が国ではその種の訓練を余りに避けてきたことが,今回のような事態での混乱の基になっていると思います。

行政は風評被害といったことを恐れて情報を開示したがりません。市民がそれだけこの種の判断に関して成熟度が低いことを恐れるためです。その秘密主義がさらに訓練の機会を殺いで,一向に市民も行政も成熟しないまま今に至っています。今回の震災と原発事故は,そのような状況をこのまま放置していてはいけないことも示唆しているのでしょう。

 

 

(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)

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