「持続可能社会づくりへの日本の役割」再考(内藤 正明:MailNews 2018年5月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2018年5月号に掲載したものです。

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今の日本の危機

この不安定な時代にあって、これからの日本がどうなっていくのかということを論じる意見が様々にみられる。その中で最近、内田樹氏が「人口減少社会の未来学1)」という本を出された。確かに人口減少が大きな課題であることは知られたことだが、もうかなり論じられていて、今や新奇な意見が見られないので、正直それほどの期待はしなかった。しかし、現物ではないが、ご本人がネットで解説されているものを見ると面白い提言が含まれていると感じたので、その内容を引用しながら、私見を述べてみようと思う。ただし大半は引用なので、自分の主張はどこにあるのかと批判されそうだが、最後の部分が大事な自前の主張であり、そこに至る長い引用は前文であると理解してもらえると幸いである。

 

高齢化社会の本当の問題 -ここでも団塊世代が-

話の出だしで内田氏が、「僕が小学生だった頃、日本の人口は9000万人そこそこでした。日本の人口がその水準まで減るのは2050年頃ですから、まだだいぶ先です。」と言っている。それは私がよく、「自分が小学校で習った頃の日本の人口は、7000万人であったが、それでも人口過剰なので、これをどうするのかが問題であると教わった」いう昔話をして、「だから人口減少を騒ぐのは、どこが適正数なのかという議論なしでは無意味ではないか」と言ってきた。しかし、内田氏の話の展開はそれとは違って、「人口減で、高齢者が3割を超える一方で、子どもの数は僕が子どもの頃の4分の1くらいまで減るからです」と、例の少子高齢化の問題になっていく。そこで関心が無くなりかけたが、その後の問題提起が予想を超えたので、関心をもった。

つまり、その高齢者がただの高齢でなく、「団塊世代であって、その世代の特性にこそ問題がある」というのがこの著者の第一の論点である。その主旨は、「団塊の世代はとにかく数が多い上に同質性が高くて、態度がでかい(笑)。生まれてからずっと社会において最大の年齢集団だったわけで、子どもの頃からつねにマーケットの方が僕たちのニーズを追いかけてくれた」。ということで、その結果、「協調性がなくて、自分勝手な集団がそのまま後期高齢者になるわけですからね、介護現場にも多大な迷惑をかけることになる」と、当事者として心配している。

そして、大事なのは以下の問題提起である。つまり、「高齢者にとって最も大切なのは、不愉快な隣人たちと限られた資源を分かち合い、共生できる力です。でも、ひたすら競争的な環境で、相手を蹴落とすシステムの中で生きてきた人間にそれを期待することは難しいです」、「しかも、60歳まで大人になれなかった人は正直に言って、外側は老人で中身はガキという『老いた幼児』になるしかない。これから日本が直面する最大の社会的難問はこの大量の幼児的老人に、それなりに自尊感情を維持しながら、愉快な生活を送ってもらうかということ」とある。

 

本当の経済活動とは

さらにこの流れの面白い示唆は、経済に関するものである。「経済活動というのは、恒常的な交換のサイクルを創り出し、それを維持することを通じて、人間の成熟を支援するための仕組みです」と定義している。そして、「交換活動の安定的で信頼できるプレイヤーとして認められるためには、約束を守る、嘘をつかない、利益を独占しないといった人間的資質を具えている必要がある」ということである。かつての三方よしをモットーとした近江商人を思い起させるが、それこそが本当の商売だったということを主張しているのだろう。

しかし、「高度経済成長期以後、日本では金儲けの能力と人間的成熟の間のリンケージは切れてしまった。でも、プレイヤーに市民的成熟を要求しない経済活動というのは、人類学的には経済活動ではない、ただのゲームに過ぎない。そんなゲームは人類が生き延びてゆく上では何の意味もない」という誠に手厳しい指摘である。何度かこのコラムで自分も素人ながら、今日の「倫理なき経済」批判をしたことがあるが、同様の意見である。それにしても我が国の経済運営に関わっている経済専門家からは、そのような意見をあまり聞かないのはなぜなのか。

 

国家目標を失った日本
-エコノミック・アニマルからただのアニマルへ-

さらに戦後日本についての認識は、「近隣国からエコノミック・アニマルと蔑まれるほど必死に経済活動をしていたのは、敗戦国となり、アメリカの属国身分にまで落ちたけれど、経済的に成功して、アメリカの支配から脱出しようとしていたので、単に金が欲しかっただけではない。金儲けの先にあったのは国際社会における威信の回復です」

それが、「バブル崩壊で国家主権を買い戻すという壮大なプランが破綻し、2005年の国連安保理常任理事国入りにほとんど支持が集まらなかった。それなりに期待されていると思い込んでいたけれど、ただのアメリカの属国に過ぎず、国際問題について日本に固有の見識があるとは思われていなかった」ということである。確かに、当時なぜこんなに支持が集まらなかったのだろうと、門外漢ながら意外に思った記憶があるが、そういう状況認識が自分にもなかったことは確かである。

「その後、十数年の日本の迷走は、どのような国家目標のために動くのかが分からなくなってしまったビジネスマンの中から、『自分さえよければそれでいい。国のことなんか知るかよ』というタイプのグローバリストが登場し、それがビジネスマンのデフォルトになって一層国力は衰微していった。国民的目標を見失ったエコノミック・アニマルは、ただのアニマルでしかない。金儲けが自己利益の拡大だけで、何のために経済活動をするのか目標を見失った」というのが現状であるという認識であるが、残念ながらそれに反論はできそうにない。

 

「後退戦の先導役」に留まるか

では、いま日本人が国民的な目標として何を設定するか、に対して、「まことに悩ましいところです。ダウンサイジング論や平田オリザさんの新しいライフスタイルの提案は、人口減少社会の長期的なロードマップを示していると思います。人口減少社会をどうソフトランディングさせるのか。その手立てをトップランナーとして世界に発信するのが日本に与えられた世界史的責務だ」というのが内田氏の提案である。

そのような敗戦処理が今の日本にふさわしい役かと思わせるデータを、古賀茂明さんの記事から引用すると、「一人当たり名目GDPは世界25位で、先進国から転落寸前と言っても良い。また、ビジネス環境ランキングでは、日本は34位。因みに、2位シンガポール、4位韓国、5位香港とアジア3カ国が並び、15位に台湾が入っている。人材養成についても世界の大学ランキングで、日本は、東大が世界46位である。アジアだけのランキングでも、上位21校中、日本は東大と京大(11位)の2校だけ。中国は7校、韓国と香港が5校、シンガポール2校だった(正確な年度は略)」ということのようである。

さらに最近のニュースでは、「宮崎県の私立高校が中国から多くの優秀な学生集め、日本の大学に全員が合格している」、「中国で良い大学に入るのは難しいから日本の大学にしたという。日本語で受けるとしても、まだ中国よりは易しい」という事は、今後の日本をどうみればいいのだろうか。

このように近年のデータでは、「経済指標、大学ランキング、新規企業数など」あらゆる指標で日本は先進国の中では下位になっていて、近い将来も上昇する気配がなさそうである。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」時代を生きてきた者からすると、「嘘だろう。きっと指標が間違っているのだ」と、ここ何年かは思ってきたが、いよいよそれが真の姿であることを認めるときがきた。その面からも、後退戦の先導役というのは、皮肉のようだが適任なのかもしれない。

ここまでの歴史的背景を踏まえて、「これから日本が闘うのは長期後退戦です。それをどう機嫌よく闘うのか。世界史的使命を負いながら堂々と後退戦を闘いましょうというのが僕からの提案です」と内田氏はいうが、その世界史的使命なるものは、これまでの歯切れのいい近代史観に比べると、後ろ向き(後退戦なので、後ろ向きは当然だが)すぎるように思われる。この点については私の見解はかなり異なる。

 

「懐かしい未来」創りの先導役を担う

今の人類史上の危機は、我々からすると経済や社会よりも地球環境の危機である。その原因はいまさらであるが、結局は飽くなき自然資源の収奪とその無節操な廃棄である。したがって、飽くなき欲望を抑えることなしには、それ以外のどんな対策も焼け石に水であるというのが、私の結論である。だから、もし撤退戦というなら、我欲こそが社会の進歩の動因であるとする社会から、知足の社会観へ変わるということであろう。そのような撤退戦は拡大こそ進歩と信じて邁進してきたアメリカや、いままさに邁進している中国、その他の上述の発展中の国々が担えるはずはない。

もう発展の可能性がないので、しかたなく後退戦を担うというのではなく、むしろ知足という価値観を、一部であっても今も持ち続けている我が国の出番が来たのだというのが、私の主張である。それを「懐かしき未来」への先導者と言ってもいい。それが内田氏の言う「後退戦において世界史的使命を負って堂々と戦う」ということと似ているようで、大いに異なる点である。

今度こそ人類が、“真の意味で豊かに持続する社会”に向けて進軍するための先導役という前向きな世界史的役割である。では、なぜこれが日本に適しているのか?これはすでに以前の巻頭言2)で引用したヘレン・ミアーズの言葉を要約しておく。それは、「無限の広がりを持った空間の征服を目指すアメリカ文明は、狭く限られた空間の中で幸せを“装う”術を身に着け、自足する文化を作り上げてきた日本人とは、正反対の価値観と行動様式を持っている」である。

なお、ヘレン・ミアーズよりも以前の幕末、明治期の日本に来た欧米の知識人たちの多くも同様のことを記述している。「逝きし世の面影3)」(2005年)の中で、渡辺京二氏が紹介しているエドウィン・アーノルド注1)の記述は、「地上で天国か極楽にもっとも近づいている国。その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙である。その礼儀正しさは謙虚であるが、卑屈に堕すことなく、精巧であるが飾ることがない。これこそ日本を、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と言っている。これは、ポール・クローデル注2)の「彼らは貧しい、しかし高貴である」という言葉とも通底する。

江戸の250年間は世界でも例のない自給的「持続可能社会」であった。地球全体が閉ざされた有限の空間になってしまったいま、その限られた世界の中で、人類が自給しながら持続するには、その当時の生活様式、価値観が(十分)条件となる。そしていまこそそれ以外の道が見いだせなくなっている。それゆえにこそ、日本が当時から培い、未だ残っている倫理観が、人類生き残りの道を世界に示すことになるだろう。それは軍事力でも経済力でもなく、「倫理の力」で世界から尊敬を克ち得るという名誉を担うことになるだろう。

注1:Sir Edwin Arnold(1832-1904)。イギリスのジャーナリスト、随筆家、東洋学者。本文中の発言は1889年の来日時のもの。

注2:Paul Louis Charles Claudel(1868-1955)。フランスの詩人、劇作家、外交官。1921-27年フランス駐日大使に就任。

  1. 内田 樹(編著)ほか:人口減少社会の未来学,文藝春秋,2018.
  2. 内藤 正明:アメリカを鏡として見る-日本の社会と文化,http://www.kiess.org/mailnews_1606_naito/,KIESS MailNews 2016 年6 月号.
  3. 渡辺 京二:逝きし世の面影,平凡社,2005.

 

(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)

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