マインドセットを変える(荒田 鉄二:MailNews 2016年12月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2016年12月号に掲載したものです。

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ホモ・エコノミクス

10月のフォーラムで内藤先生にお会いした際に『善と悪の経済学』という本のことを聞きました。内容はどこかで内藤先生からご紹介いただけるかと思いますが、その要点は、現代の主流派経済学は、ホモ・エコノミクス(=自分自身の利益を追求して経済合理的に行動する人間)を想定することによって、経済学を価値中立的で倫理的判断とは無縁のものにしようとしてきた。しかし、経済は倫理・道徳と無縁ではありえない。そもそもの起源に遡れば、倫理・道徳的なことが経済学の中心的な関心事だった。今日の経済学も倫理・道徳から逃げて抽象的な数式の世界に閉じこもるのは止めて、もっと幅広い学問分野になるべきだ、というものです。

以前から私も人間を合理的な存在と想定することには違和感がありました。理由は幾つかあります。一つ目は、自分自身の経験として全くリアリティーが無いことです。私には、過去の合理的な判断の積み重ねの結果として現在の自分があるとは到底思えません。二つ目は、論理的なものです。合理性の概念は、もともと非合理性の存在を想定しているように思えるからです。もしも、合理的判断と合理的行動しか存在しないのであれば、そもそも合理性という概念そのものが存在しなかったでしょう。合理性の概念の存在自体が、人間は合理的とは限らないことを示しており、人間を合理的な存在と想定することには無理があるように思います。

この点に関して経済学者は、「個人や企業が合理的に行動すると仮定するのは、その方がモデルを単純化できるからで、同じようなことは物理学でもやっている」と言うかもしれません。確かに物理でも、理想状態を想定して、摩擦抵抗や空気抵抗を無いことにすることはあります。しかし、物理学の場合には、現実から何を取り除いたかが分かっています(更に言えば、取り除いた部分についての理論と計算式もあります)。そして、現実の世界に応用する場合には、取り除いた部分を元に戻します。しかし、経済学の場合には、人間を合理的な存在と想定することによって、現実から何を取り除いたのかがはっきりしません。従って、現実の世界に応用するときに取り除いた部分を元に戻すこともできません。更には、取り除いた部分と残した部分のどちらの影響が大きいのかも分かりません。これでは、どのようなモデルを作ったとしても、現実世界には応用できないように思います。これが三つ目の疑問です。

 

理性と感情

『善と悪の経済学』を読んで最も印象に残ったのは、理性と感情は通常考えられているように対立的なものではなく、連続的なものであるというところでした。

理性的な部分と感情的な部分の唯一のちがいは、反復の度合い、すなわちある感情が実証的あるいは社会的に確認される度合いにある。重要な新しい感情的知覚は、とらえどころのないソフトなものとしてまず認知される。やがて繰り返し社会的に認知されるうちに、合理的な概念として固定される、つまりハード化されるようになる。文明が始まったばかりでハード化される感情が少なかった頃は、今日ほどには両者の違いは明確ではなかっただろう。1)

要するに、理性とは、多くの人によって繰り返し経験され、それを表現する言葉を与えられて社会に定着し、概念として固定化した感情だということです。ホセ・オルテガ風に言えば、「理性とは慣習化した感情である」ということになるでしょうか。

このことが印象に残ったのは、すぐ後に読んだ本のせいもあります。『意識はいつ生まれるのか』という本で、その初めのところにアポロ計画の宇宙飛行士の話が出てきます。

ふとした瞬間にふりかえると、地球が月の地平線から昇るのが見えたのだった。飛行士たちの世界観は一瞬にして刷新された。他人にはなかなか理解してもらえない、あまりに新しく、はっきりとした深い世界観を得たのである。彼らが月から地球を見た瞬間に感じた衝撃を説明しようとするとき、選択の余地はあまりなかった。実際、どの飛行士もだいたい同じような表現を使っている。

 

あの距離からだと、親指を立てたら地球がすっぽり隠れてしまう。それまでに経験してきたことすべてが、そして愛情も、悩みも、世界中の問題も、たった一本の指の向こうに隠れるんだ。(ジム・ラベル)

 

私は親指を立てた。片眼をつむったら、地球の姿が親指の向こうに消えて見えなくなったんだ。自分が巨人になったとは感じなかった。自分を、とてもちっぽけに感じた。(ニール・アームストロング)

 

われわれが地球から遠ざかるにつれ、その姿は小さくなっていった。とうとう最後には、ビー玉大になった。とても美しく生き生きとしたその物体は、あまりにももろく、繊細な様子で、指一本で触れるだけでばらばらになってしまうようだった。こんなことを目の当たりにしたら、人生観が変わらないわけがない。(ジェームズ・B・アーウィン)

 

宇宙飛行士たちの言葉は、単純すぎるように響くかもしれない。だがよく味わってみると感動的だ。概念を説いたり議論したりするわけではなく、その場で心から感じた、直感的な驚きを表している。宇宙飛行士たちは、何年も月の探索を夢見つづけた末に、意外にも地球を発見したのだった。2)

これを読んで思ったのは、持続可能社会が実現するには、この宇宙飛行士たちが体験した感情的経験に言葉が与えられ、広く共有されて理性となる必要があるのではないかということでした。本には、「1968年i)にはすでに、地球が丸いことは周知の事実だった。広大な宇宙の片隅に浮かぶ、限りなく小さな星であることもわかっていた。しかし、その知識があるのと、実際に体感するのとでは雲泥の差がある。」3)とあります。残念ながら、私たち全員が月に行くことは出来そうにありません。それでは宇宙飛行士たちが月から地球を見た時に湧き上がってきた感情を共有化するにはどうすればよいのでしょうか。『善と悪の経済学』の中で著者のセドラチェクは、真実は科学の独占物ではなく、語り伝えられた神話や物語にも生きている人間にとっての真実があると述べています。感情を共有化するにためには、感情抜きの科学的説明ではなく、宇宙飛行士たちの体験を追体験できる物語が必要なのだと思います。まだ書かれていない物語によって宇宙飛行士たちの感情が広く共有され、それに言葉が与えられて理性になることを期待したいと思います。

 

科学と価値

現代の主流派経済学は、ホモ・エコノミクスを想定することによって価値判断を排除し、科学になろうとしてきたらしいのですが、そもそも科学は価値判断と無縁なのでしょうか。たとえば、「科学は価値判断とは無関係であるべきだと科学者が言った」とします。この言明は「べき」(当為)を含んでおり、それは「価値判断と無関係であることは良いことだ」という価値判断を含んでいます。ここで「科学は価値判断とは無関係であるべきだ」と言ったのは、科学者としての発言だったのでしょうか、そうではなかったのでしょうか。上記の言明は、「クレタ人は皆嘘つきだとクレタ人が言った」という言明と同程度に変てこな言明なのだと思います。ここまでは、単なる言葉の遊びで、大して気にする必要もないのですが、本当の問題は「価値と無関係な立場があり得る」という、これまで暗黙のうちに自明とされてきた前提の方にあるのだと思います。

私は、人間は何らかの枠組みを通して世界を認識するのであり、それ無しには世界を認識できないのだと考えています。ホセ・オルテガはこれをパースペクティブと呼んでおり、アインシュタインの言うマインドセットii)も同じことを意味しているのだと思います。時代や文化ごとに様々なマインドセットがあり、それらを通じて人間は様々に世界を解釈して認識してきたわけですが、マインドセット無しの認識は存在しません。認識には無色透明なゼロ地点(偏見なし)は存在しないのです。敢えてゼロ地点を探すとすれば、それは意識が発生する前の胎児状態の人間の中ということになるでしょう。生まれたばかりの赤ん坊は目を開けていても多分何も認識できていないのだと思います。その理由は、まだ認識の枠組みを身に付けていないからです。私は人間の感情や感情表現も学習したものだと考えているのですが、それらも含めて、人間は自分が生まれた社会のマインドセットを身に付け、それを通じて世界を認識します。そして身に付けたマインドセットには、その社会の価値体系が否応なく組み込まれています。要するに価値体系を伴ったマインドセットを通して行われる認識は、認識行為自体が「何が重要か」という価値判断を含んでいるのです。例えば、道端に落ちているお札も、お金を知っている人にとっては重要であっても、お金を知らない人には視界に入っていたとしても認識の網にかからず、その存在は意識にものぼらないことでしょう。このため、私は科学的認識といえども価値判断と無縁ではありえないと考えています。科学に含まれる価値判断が私たちの意識にのぼらないのは、判断が慣習として定着し自動化しているからであり、当たり前すぎる判断は意識にのぼらないのです。

 

友愛の経済

ルドルフ・シュタイナーは1919年に出版された『社会問題の核心』のなかで、現代社会の混乱の根本原因は、自由、平等、友愛という近代の三つの理念の誤用にあると述べています。シュタイナーは人間の社会生活は、精神生活、法と政治生活、経済生活の分野に三分節化し、それぞれに独立性を持たせるべきだとしています。そして、芸術や文化などの精神生活の指導原理が「自由」、法と政治生活の指導原理が「平等」、経済生活の指導原理が「友愛」だとしています。分業はもともと人々の協力を前提としており、分業に基づく経済は「友愛」を指導原理とするべきでした。それにもかかわらず、経済生活の指導原理に「自由」を据えてしまったこと、この点も含めて社会の三分節化の必要性を理解せずに近代の指導原理である自由、平等、友愛の理念を誤用していること、そこに第一次世界大戦に至った社会問題の核心があるというのです。シュタイナーに従えば、今日のグローバル資本主義の行き詰まりの原因も「自由」の誤用にあり、ソ連型の社会主義が失敗した原因は「平等」の誤用(精神生活と経済生活においても「平等」を指導原理としてしまったこと)にあるということになるでしょう。これはとても納得のいく説明で、100年も前に書かれたシュタイナーの本が全く古さを感じさせないのには驚きです。では、シュタイナーの主張が尤もだとして、持続性のために「友愛」に基づく経済を作るにはどうすればよいのでしょうか。

 

頭のリフォーム

「社会を作り変える前に、まず人々の頭の中を作り変える必要がある」というようなことが言われることがあります。これは比喩ではなく本当のことなのだと思います。人間の脳内では、同じ刺激を何度も繰り返し受けると、それに対応した神経細胞の繋がりが作られていきます(実際には、新しい繋がりができるのではなく、はじめの一様な繋がりを持った構造から不要な繋がりを除去することによって様々な刺激に対応したそれぞれに独自で多様性のある神経細胞の繋がりが出来上がっていくそうです)。要するに、私たちのマインドセットは脳内の神経細胞の繋がり方という物的基盤を持っているのです。このため、マインドセットを変えるということは、神経細胞の繋がり方を変えるということであり、それには脳を刺激する感情を伴う経験が必要になります。逆に言うと、感情を伴わない形で幾ら知識を与えても、マインドセットは変わらないとうことです。

このことは不安定な時代に危機感を煽るポピュリストがなぜ支持を集めるのかも説明してくれるように思います。恐怖心という最も基本的ともいえる感情に訴えれば、割と簡単に人々のマインドセットを変え、行動を変えることもできるのです。しかし、これは政治的プロパガンダの手法そのものです。プロパガンダ的手法を使うのが、戦争のためにはダメでも、持続性のためならオーケーかというと、そうはならないでしょうから、私たちのマインドセットを変えるには何か別の手法が必要になります。恐怖心や集団心理による熱狂に頼ることなく、私たちの頭をリフォームするにはどうすればよいのでしょうか。

 

疑似体験ツールとしての物語

私たちが「納得した」と言うときには、単に知識として理解しただけではなく、感情を伴う「何か」があって、それによって神経細胞の繋がり方が変化しているのだと思います。そして納得のいく経験を重ねて、それがどこかで閾値を超えると、マインドセット全体が変わるのだと思います。そうなると、納得してもらうためには、既にマインドセットの転換が済んでいて「友愛の経済」を実践している人たちがいるとしたら、そこで暫く一緒に暮らして経験を積み重ねてもらうのが一番でしょう。私たちも家族の中、学校、地域社会、会社などで感情を伴う様々な経験をする過程で現行のマインドセットを身に付けてきたはずなので、実体験をしてもらうのが確実なのは間違いありません。しかし、新自由主義の影響下で社会全体がホモ・エコノミクスを前提に組織されている中で、「友愛の経済」を実践して暮らしていくのはかなり難しいと思います。このため、実体験の場は、ある程度の規模を持ったエコビレッジなどの中に限られるでしょう。

実体験の場が限られるとなると、その代わりに期待されるのが疑似体験です。登場人物を通じて、感情の部分を含めて自分とは異なる人の生を経験させてくれる物語は疑似体験の優れたツールといえるでしょう。そうすると、持続性に向けて、私たちのマインドセットの「世界における人間の位置づけ」に関する部分を変えるには「宇宙飛行士の物語」が、「人と人の関係」に関する部分を変えるには「友愛の経済の物語」が必要ということでしょうか。

 

おわりに

マインドセットを変えるといっても、既に大人になってしまった私たちがゼロ地点を求めて赤ん坊に返ることは出来ません。同様に、ホモ・エコノミクスの理念がどんなに気に入らないとしても、それが無かったことにはできません。理由は単純に、私たちが既にそれを知ってしまっているからです。これは広島・長崎を経験した人類が、それ以前の状態には戻れないのと同様です。ポルポト派は、資本主義のマインドセットを、それを知っている人間ごと抹殺しようとしたのでしょうが、成功したようには見えません。どんなに望んだとしても、後戻りはできないこと、これが歴史的存在としての人間の宿命なのだと思います。「友愛の経済の物語」は既に古い神話や物語の中で語られていたのかもしれません。しかし、私たちにはそれを再発見するだけでは不十分です。これから書かれるべき「友愛の経済の物語」は、ホモ・エコノミクスの栄光と挫折を含むものである必要があるのだと思います。

 

注釈
  1. 1968年12月にフランク・ボーマン、ジム・ラベル、ウィリアム・アンダースの3人の宇宙飛行士が搭乗するアポロ8号が人類初の月周回飛行を行い、その時に月の地平線に昇る地球の写真(Earthrise)を撮影しました。“Earthrise”の写真は次のNASAのWebページで見ることができます。
    1612_arata_fig1
    https://www.nasa.gov/sites/default/files/images/297755main_GPN-2001-000009_full.jpg
  2. アインシュタインの言うマインドセットについては、次のグローバル・エコビレッジ・ネットワーク・ジャパンのガイアエデュケーションのWebページをご覧ください。
    http://genjp2015.wixsite.com/education/home

 

参考文献
  1. トーマス・セドラチェク:善と悪の経済学,東洋経済新報社,2015.
  2. マルチェッロ・マスィミーニ,ジュリオ・トニーノ:意識はいつ生まれるのか,亜紀書房,2015.
  3. 同上

 

(あらた てつじ:KIESS事務局長・鳥取環境大学准教授)

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