『生きているうちは、ひとは世の中の役にたってしまう。』?— 石田千氏のエッセイから想起して —(内藤 正明:MailNews 2016年9月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2016年9月号に掲載したものです。

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話の発端

朝日新聞に「折々のことば」というミニコラムがあって、このところ鷲田清一先生が担当して毎回面白い話を紹介しておられる。しかし、余り短文なので、時に疑問・議論(余韻というべきか)が残る感じがする。その一つがここに紹介する表題のコラム1)である。

いささか奇異な表題の文章は、石田千という小説家の「役立たず、」2)というエッセイ(?)から引用されたものである。石田氏は、「犯罪者だって、警察が動けばガソリンや張り込み中のパンが必要になるし、収監されると職業訓練で人々に貢献する。つまりは金銭物資の流通が起こる。」といっている。その要旨を鷲田先生は、“人はただいるだけで意味があるが、そもそも役立たないでいることが難しい”と要約されている。この話の意外性に鷲田先生は興味を持たれたのだろうか。たったこの数行の短いコラムではそのところを窺い知ることはできないが、意外性と同時にいくつもの問題点が含まれていることは誰もが気づくだろう。

 

ここでいう「社会に役立つ」とは

まず気になるのは、石田氏のいう「役立つ」ことの中身である。ここでは、“金銭物資の流通が起こること“とされている。この犯罪者の例では、それは犯人の逮捕・収容の際に直接必要なモノとサービスから生まれるものである。さらに、警察活動に伴い必要となる経費が社会にとっては金銭物流になるので、これによってもたらされる経済全体の動きのことである。この額は僅かであるが、もし大規模なテロやオウム事件のような場合であれば金の流れは大きなものになって、GNPは相当上がるだろう。犯罪や事故は社会全体にとってはまったく生産的でないが、”金銭物流の大きさを表すGNPGDP”には貢献する。だからそれら指標が適切ではないという議論はずっとされてきたが…。

このようなことを要約すると、あらゆる出来事は、「特定の人々には必ず何らかの効用があり、また(尺度の決め方によっては)社会全体にとっての効用として表わされる」というのがより正確な表現だろう。だから、誰かの役に立つといって、犯罪や事故などを皆がやり始めたら、社会が成り立たないことは明らかである。つまり特定の誰かに役立つことと、社会全体に効用をもたらすこととは決して一致しない。

鷲田先生もそんなことは百も承知で、このコラムを書かれたのだろう。そうだとしたら、ここで哲学者としての先生の問い掛けは何だったのか。それは多分、「本当に社会に役立つとは何かを、もう一度よく考えなさい」ということではないか。これは簡単なようで、とても難しい問いである。その理由は、一つには、“役立つ”ということの中身と、もう一つは、社会に役立つという場合の社会とは“誰のことか”という対象の定義であり、この二つを明確にする必要があるからである。それを以下に若干考察してみよう。

 

仕事と社会との関係

警官に仕事を作るから犯罪は社会に役立つという理屈には一瞬驚くが、なるほどそうだと納得はしがたいだろう。それなら警察と親戚筋の消防はどうだろう。放火犯が“俺は消防署に仕事を作っているから社会に貢献している”と言われたら、誰もが“ふざけるな”と怒るだろう。では病院、ゴミ処理業、さらには我々の環境保全の仕事も含めて、社会が被るマイナスを保全・修復するための仕事はどうか。それらも本来は、“無くて済めば社会は幸せ”という類の仕事ということでは同類である。それでは、老人や障害を持った人など広く社会的弱者の福祉はどうか。いまその費用が日本の大きな財政負担になっているが、そのことは社会の金銭物流に大きな役割を果たしている証拠でもある。だからといって筆者も含めた高齢者が、介護の費用を使ってやっているから、“世の中の役に立っている”と威張ることができるだろうか。確かに介護関連の雇用増大に役立ってはいるが、それは国の財政負担となり、麻生財務大臣に「いつまで生きるつもりなのか」といわれることになる。

では社会の幸せのためには姨捨が要るのか?とても難しい課題である。あるコミュニティーで高齢者がとても大事にされているのを見て、その理由を尋ねたら、「いずれ自分がそうなったとき大切にされるという安心感が、いま頑張ろうという気にさせるから」という返事を聞いたことがある。石田氏の、「誰もが生きている限り役に立ってしまう」という言葉は、この難題(「存在価値」論)に対する回答を意図したものなのだろうか。

社会に負担をかけることによる経費は「社会的費用」と呼ばれて、社会全体の幸せ・豊かさにマイナスとなる。とはいえ、犯罪、病気、環境破壊などはどうしても避けることができないものなので、その防止活動は社会に役立つ仕事として評価してもよいのだろう。しかし、そもそもそのようなマイナスの発生は、元から絶つことがより望ましいし経費も少なくて済む。予防医学が叫ばれるのはそのためである。ただし、そうなると薬や病院の売り上げは下がって国のGNPは低下する

このように社会的費用を経済評価に加えるのが妥当かどうかは、何段階もの議論を経なければならない。事故や犯罪や病気など経済を活性化することは間違いない。さらに戦争に至ってはとても巨大な経済効果をもたらす。世界の大財閥はそれで成立しいまも維持されているらしい。GDP、GNPをあえて経済の指標として使い続けるのは、このような事実を考慮した上でのことなのか。石田氏の示唆はそのことも、(皮肉を込めて?)含んでいるのだろうか。

 

社会に役立つということの定義

社会に負担をかける社会的費用の定義が難しいなら、その逆の「社会的効用」の定義はどうか。誰もが認める“社会に役立つモノやサービス”とは何か。その代表は、「衣、食、住」であろう。これは人が生きる必須のモノであるから異論の余地はないように思えるが、ことはそう簡単ではない。生存に必須の米1kgより、腹の足しにもならない金1gの方がはるかに高価なのはなぜかという問答は、役立ち度だけでは価値が決まらないことの例としてよく聞かされたが、その答えを理屈で説明することは簡単ではない。そこで、「神の見えざる手に任せ」て、人の欲求度に応じて自由に値付けさせて価値を決めたらいいというのが「市場原理」である。旧ソビエトのように、あらゆるモノやサービスに役所が価値づけをするより、人々の欲望に任せて市場で売り買いさせたら、双方が納得する値に落ち着くという方法が簡単で合理的であるのは確かである。

しかし、市場に任せて価値を決めるだけでは困る事態が様々に出てきた。その第一が、誰のものでもない(と思われがちな)「環境や資源(公共財、共有材=コモンズ)」がタダ同然で、偏った主体に大量消費されることである。第二が、近年の資本主義経済の仕組みの中で、不当な格差によって必要とするものも手に入れられない人々が増大していることである。そのような社会にとって、どんなものが社会に役立つと定義したらいいのだろうか。いま考えられている方法は、① 環境については「その許容限界を設定して、その範囲に中に人間活動を収めること」である。② 格差については「誰もが望む幸せとは何かという指標を導き、それに沿って社会を作り直していくこと」であり、各国・各地でそのような試みがなされている。

どちらも人間の本性に掉さすとさえ思われる困難な課題であるが、いまの地球環境や社会の深刻な状態を見て、ようやく①、②の作業が動き始めた。だが一番の問題は、そのような深刻な状況を作り出した「力を持つ人達」が、当然ながらその変革を嫌って、これを妨げていることである。日本においては、本来動くべき被害者たちが、現状の経済的な苦しさゆえに必死で経済の発展という疑似餌に食いついていくからである。早くそのことに気づく日が来るのを祈るばかりである。

このように、社会に役立つということを定義するには、「誰にために、どのような」を明確にしなければならないが、そこまでの議論はさらに先の課題になるだろう。

 

人に本当に役立つ社会をつくる原理は

地球環境問題が心配され、地球にやさしいという言葉が流行ったが、どんな行為も地球には大なり小なり負荷をかけるという意味では、やさしいということはあり得ないことになる。ということで、ここでの結論は、最初の鷲田先生のテーゼ、『人はただいるだけで意味があり、そもそも役立たないでいることが難しい』とは真逆になって、『人はただいるだけで社会と自然に迷惑をかけてしまう。そもそも迷惑をかけないで生きていくことはできない』ということになるが、これでは却って当たり前すぎて、誰も余り驚かないかもしれない。

つまり、かつては贅沢とか勿体ないとして自己規制し、これからはさらに厳しく「エコ」という基準に照らした社会的な規制が必要になってきた。これらに通底するのは、限られた環境で生きていくために必要な制約である。現在のようにその制約をはるかに越えた状況になってしまったとき、その中で「限られたモノを分け合って皆で生きていくか」、「他人のもの(又は誰のものでもない自然のもの)を収奪して、自分だけが少しでも贅沢に生きるか」である。人類の歴史は奪い合うことにより共に滅んだ文明の積み重ねといっていい。ということは、人類史から見ても、分かち合いというのはあまり期待できそうにない。曲がりなりにも江戸時代は稀な例外にかもしれない。だからこそ、幕末以来今日まで日本を見た外国人が驚く「譲り合い、分かち合い」の行動が、それを示しているのではないか。

現在の巨大な人間活動が続けば、今回こそはこの限られた地球で人類全体の持続が危ないと懸念される。いまこそ、「人は生きている限り他者と地球に迷惑をかけてしまう」ことを認めて、徹底してその迷惑を少なくし、分かち合うことが求められる。しかし、民主主義が広がって、衆愚政治がそれを選択するとは考えにくい。これまでの地球環境をめぐる世界の議論をみてもそれは明らかである。ならば微かな可能性は、閉ざされた島国で生きてきた江戸時代の日本人の、「もったいない」精神を世界に広めることなのかもしれない。

今、人類が直面している2つの課題、「社会格差」「地球環境」問題は共に、強者による弱者に対するしわ寄せが原点である。ただし、現世代間の弱者切り捨てなら、その善悪は社会正義の問題として扱われ、いまは強者の論理が勝っているが、世代間の弱者切り捨ては、地球全体の自然生態系にまで拡がり、結局それは地球生命系の崩壊に繋がるので、善悪を超えた科学的真理の問題なので絶対制約として考慮せざるを得ない。

 

人の行動や活動をどう分類するか

こまで議論してきた仕事、または人間の活動を、「社会に役立つ」、「地球にやさしい(誰にもツケを回さない)」、そして「GDPに貢献する」という3つの尺度で分かりやすく図に表現してみたものを、次ページに挙げておく。ただし、この3つの尺度の定量的な根拠は特にはなく、作者(花河奈生:中学2年生)の独断と偏見!で感覚的に描いたものである。ここにこの図の作者による若干の説明を加えておく。

  • 横軸は、それぞれの「人間の活動(行為)」がどれだけ人間社会に役立っているかを表すもので、右に行くほど人間社会に役立っていることを示します。ただ、この役立ちの尺度は、「幸せ指標」などができないと正しくは描けません。
  • 縦軸はそれぞれのことがどれだけ地球の負荷になるのかを表すもので、下に行くほど地球の負荷が大きいことを示します。これもその経済を正確にするのは難しいです。
  • 第I象限は、人間社会に役立ち地球にもやさしいこと、第II象限は、人間社会に役立つが地球の負荷になることを意味します。この第I象限に入る活動が無いのは、人間社会に役立つ人間活動は、すべてが地球に負荷を与えると思ったからです。なので、すべてが第II、第III象限に入っています。
  • 第II象限にある点線は、その線までが地球環境負荷の限界で、それを超えている地球負荷は地球持続にとって耐えきれないだろうという線です。これを正しく決めるには、色々な地球環境のデータが必要だと思います。地球で人が生き延びる「持続可能社会」を作るには、この線を超えていない技術、行動、だけを採用することだと思います。ただ、例えば有機栽培自体は地球への負荷が小さくても、地球上の土地を全部耕してしまえば地球持続にとって耐えきれないように、一つ一つは地球環境負荷の限界以下でも、数(範囲)が多ければ地球の容量を超えてしまうのが問題です。
  • 丸印は、それぞれが、どれほどGDPに貢献しているかという大きさを示しています。この数字を計算するのは比較的容易ですがもちろん簡単ではありません。どれにも丸印(GDP)がついているのは、人間が何かの活動をすれば必ずお金が動いて、それはGDPに貢献することを意味するからです。この丸の大きさは大体中心からの距離に比例しているだろうと思います。

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人間の活動分類

 

  1. 鷲田 清一:折々のことば(261), 朝日新聞朝刊, 2015.12.25.
  2. 石田 千:役立たず、, 光文社新書, 2013.

 

(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)

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