“環境と経済 —その永遠のライバル— ”(内藤 正明:MailNews 2016年2月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2016年2月号に掲載したものです。

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はじめに

戦後一貫して、経済が環境と対立するものとして論じられてきた。それ故、今さら「経済と環境」を、こと新たに論じるつもりはない。しかし、最近になってようやく、「金儲けこそが人間にとって最大の価値である」という派と、もう金はほどほどにして「こころ豊かな生き方」に価値を見つけようという派が、次第に明らかになってきた。前者(金儲け派)は戦後の経済成長を担ってきた団塊世代とそのジュニアを中心とする後期、中期高齢者が中心で、これまで圧倒的な勢力であった。後者(心豊か派)は平成生まれの若者世代が中心で、次第にその数が増してきて、金儲け派に少し対抗できるようになってきた。しかし、金儲け世代はバブル時代を経て、日本の歴史の中で最も富を蓄積してきた世代で、まだその金とかなりの権力を握っているので、若者の社会変革の動きを妨げている。

このような両派のせめぎ合いが、次第に目に付くようになってきたので、そのことに関連する情報をランダムにではあるが集めてみた。それを眺めることで、問題の本質を探り、今後の方向を見つける一助になることを期待して……

 

経済主体の飽くなき利益追求

「金儲け派、または経済発展志向派」の代表組織は日本でいえば、「経団連」であろう。その行動の本質を知るのに参考になる情報を、まったくの断片であるがいくつか(主に目に留まった新聞記事とかネット情報から)拾い上げてみた。

 

経団連の再軍備計画

産業界が戦争で儲かることは、歴史の教えるところである。ただし、産業基盤そのものが大きく破壊されるような大戦では引き合わないが、適度な規模で、さらに対岸の火事であれば大もうけであることは多くの事例が示す通りである。世界の大財閥は、世界戦争で巨万の富を蓄積したことが知られている。軍需産業の恐ろしさは、戦争を待望するだけでなく、自らが仕掛ける存在にもなることである。

敗戦で日本国民がもう戦争はこりごりだとの気持ちで、徹底した平和主義に転換してからまだようやく7年半が過ぎたばかりのころ、経団連は密かに再軍備構想を試案として作成していた。朝鮮戦争で大もうけした日本企業は、その終戦が見えてきたので、軍需での儲けが継続することを期待して作った再軍備構想だった。しかし、そこでの軍備費が国民所得の一割にも及ぶ規模だったので、立ち消えになった。

 

経団連の武器輸出拡大の要請

安保法案が通過した直後に、経団連は新発足の防衛装備庁に早速、“防衛装備品の生産拡大、輸出拡大に向けた協力を求めた。余りの性急さに、戦後70年、日本の産業は非軍事分野で成長してきた。安易な方向に流れないように”との評論家のコメントもなされている。

確かに一度安易な道に足を踏み入れたら、そこから抜け出ることは難しくなり、「軍需産業」が勢力を持てば、それが止めようもなく自己増殖する危険はアメリカの状況を見れば分かる。戦争に必要だから武器をつくるというより、武器を売るために戦争をするという本末転倒の事態が起こっていることは世界が陰で指摘している。

昨今の安保法制議論にも関係するが、終戦当時の情勢といまは大きく国家間の事情も戦争の形態も異なるので、例えば、いまの隣国の無義道の行き方を見るにつけても、敗戦当時のような大義と覚悟での戦争放棄が通用するかどうかは、大いに議論の余地があるだろう。それに加えて、経済界の金儲けの思惑が絡んでの議論はなお一層ことを難しくする。

 

あくまでも原発推進

これは福島で原発事故があった直後の、東電の顧問で元参院議員の加納時男氏の、東電が原発事故の責任を負う必要は無いという主張である。

この方の価値観は、金融市場や株式市場の保護が環境保全などよりもずっと大事であるということであるのは明確である。というのも、議員として日本のエネルギー政策を仕切っていた時代に、少しでも産業活動に影響すると思われる環境政策を、「金が無くて環境対策もできないだろうから、経済活動の邪魔になる政策は認められない」という理屈で、徹底して押さえ込んできた。過労死寸前まで働いて金を稼いでから、その金で医者に掛かれという論理と同じではないか。因みに、経産大臣として話題になった甘利氏はこの原発派の仲間として頑張ってきた履歴がある。

あくまで原発の選択肢は放棄すべきでない。もし、東電がつぶれたら、金融市場や株式市場に大混乱を起こす。低線量の放射能はむしろ健康にいいという主張もある。また大天災の損害は免責条項がある。

 

環境税への徹底抗戦

平成5年に漸く成立した「環境基本法」は、成立までに経済界のあらゆる抵抗を受けて難産した。その象徴が「環境税」であったが、それに関する法律の文面がとても面白いので、ここに引用する。

日本の優秀な官僚が知恵を絞った官僚作文の典型がこれだというと、まともな官僚は文句をいうだろうが、この法律一文を見るだけで、この国では経済の前に環境保全政策がいかに虚しいかが明らかである。国の環境行政を私が諦めたのは、いろいろの経緯があるが、最終的にはこの一文がダメ押しとなった。

環境基本法 第二十二条
2 国は、負荷活動を行う者に対し適正かつ公平な経済的な負担を課すことによりその者が自らその負荷活動に係る環境への負荷の低減に努めることとなるように誘導することを目的とする施策が、環境の保全上の支障を防止するための有効性を期待され、国際的にも推奨されていることにかんがみ、その施策に関し、これに係る措置を講じた場合における環境の保全上の支障の防止に係る効果、我が国の経済に与える影響等を適切に調査し及び研究するとともに、その措置を講ずる必要がある場合には、その措置に係る施策を活用して環境の保全上の支障を防止することについて国民の理解と協力を得るように努めるものとする。この場合において、その措置が地球環境保全のための施策に係るものであるときは、その効果が適切に確保されるようにするため、国際的な連携に配慮するものとする。

 

過剰消費を煽るコマーシャリズム

商業主義といった言葉をよく使うが、その象徴のような文言がここに引用した箇条書きの十訓なるものである。これは、日本を代表する宣伝・広告会社が、その仕事のモットーとしている原則だそうである。

D社・広告戦略十訓

  1. もっと使わせろ
  2. 捨てさせろ
  3. 無駄使いさせろ
  4. 季節を忘れさせろ
  5. 贈り物をさせろ
  6. 組み合わせで買わせろ
  7. きっかけを投じろ
  8. 流行遅れにさせろ
  9. 気安く買わせろ
  10. 混乱をつくりだせ

環境からすると、モノの消費こそが環境悪化の最大の原因であることは否定しようがない。

だから消費の抑制のための様々な努力をしてきたが、その裏でこのような戦略に則って、「使い捨て」を煽る企業広告が、莫大な経費を使ってされてきたことを知ると、改めて今日の商売(商業主義)というのが環境と相容れないだけでなく、日本人が培ってきた社会倫理とも商業道徳とも決定的に相容れないものであることを思い知る。

 

途方もない経済格差の発生

以上のような象徴的な数例を上げるだけでも、金儲けというものに対する人間の欲望の強さを改めて実感する。そして、その行き着く先が、国連の人間開発報告書1)にあるように、世界の85人の富豪が、世界の半分の35億人分に相当する財産を持つという、途方もない格差社会の出現である。その結果、生活の質や教育や福祉は停滞し、自然災害や環境破壊により何百万人もの餓死者を生み出し、それが各地の国際紛争を引き起こすなど、現在の世界の目を覆うばかりの混乱を生んでいる。多くの人が世界の終わりを予感しているのではないだろうか。

わが国でも、小泉改革のブレインとして活躍した竹中平蔵氏は「新自由主義」政策を推進したが、それは公的な政策をできるだけ民間の競争原理に任せることで、効率化するべきとした。効率化は同時に弱肉強食と不可分、というよりそれこそが効率化の大きな要因であるから、その必然の成り行きとして今日の格差社会をもたらした。それは、庶民の貧困をもたらすだけでなく、社会の不安定化につながっているので、社会全体としてむしろ“不効率化”されている。

 

近年の脱物質社会への動き

ようやく経済的な豊かさだけが人間の本当の幸せではないという意見が、世界の各地で聞かれるようになってきた。ここでは、金儲け派に対して、近年特に見られ始めた「こころの豊かさ」派の主張を紹介してみよう。その代表がいま世界中で人気のウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領である。

世界で最も貧しい大統領と言われる南米ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が、いま世界中で関心を惹いている。彼は給与のほとんどを寄付し、個人資産は18万円相当の車1台のみで、農場で質素な暮らしをしているそうだ。そんな彼が、2012年に開催された世界の環境と開発について議論される「リオ会議」で行った勇気あるスピーチは伝説になっている。今まで誰も気が付かなかった、いや見て見ぬふりをしてきた環境問題の核心に触れ、現代社会に対して警鐘を鳴らした。この演説は、上に引用した経済界の行動原理に対して正面から反論をしている。特に心にのこる言葉は「貧しい人とは…」という定義である。これは、我々日本人にはなじみの、地獄の「餓鬼」のことであり、食べれば食べるほど飢餓感が増して狂っていく亡者のこととして知っている。

そのホセ・ムヒカ元大統領の言葉がいま急速に世界中に広がりつつあるのは、一運動家とか学者の言葉ではなく、一国を代表する大統領の言葉だからということもあろう。この堂々たる主張に、経済至上主義の我が国の政治家や経済人は正面切って反論するのだろうか。それとも、「金持ち喧嘩せず」を地でいくのだろうか。おそらく日本の高齢の金儲け派は聴く耳を持たないとしても、若い世代のこころ豊か派の人達がどんどん共鳴して、世界的に広がってくれることを期待したいし、もしそれがなければ、人類持続は不可能だろう。今後の世の中の動向を見てみたい。また、期を一にして、アメリカ大統領の予備選挙でも、思いがけず若者に支援されて「格差社会の改善」を訴える候補がでてきた。このようなことは、これまでなら暗殺されないまでも、有力候補として善戦するとは予想されなかったのではないか。

 

ホセ・ムヒカ大統領の演説2)

持続的に可能な発展と世界の貧困をなくすことについて、国際的に多くの話し合われてきました。しかし、今私たちが目指すべきことは、現在の裕福な国々の発展の消費モデルを真似することなのでしょうか? 西洋の富裕層が当たり前とする消費を世界の70億~80億人の人がしたら、どうなるでしょう。そんな資源がこの地球上にあるでしょうか? この無限の消費と発展を求める市場経済や資本主義でできた社会を作ってきたのは、間違いなく私たちです。そしてグローバリゼーションの発展により、世界のあちこちまで資源を探し求めるようになりました。まさに競争だけで成り立っている社会になりました。

このような状況の中で「みんなの世界を良くしていこう。貧困をなくしていこう」というような共存共栄な議論は成立するでしょうか?一体どこまでが仲間で、どこからがライバルなのかさえ分からないのに。

私たちは発展するために、この地球に生まれてきたわけではありません。幸せになるために生まれてきたのです。でも私たちは今、自分たちが作り出したはずの消費社会にコントロールされています。今の世界では、モノをより早くより多く消費し続けなければなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、不況がみなさんの前に現れることになるからです。そのためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。人がもっと働き、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けようとしているのです。この悪循環の中にいることに気づいて下さい。石器時代のような生活に戻れと言っているのでなく、今の消費社会を、コントロールしなければならないと言っているのです。古代ギリシアの哲学者エピクロスはこう述べています。「貧乏な人とは、少ししかモノを持っていない人ではない。無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と。

問題は、水源危機とか環境危機といったことではありません。もっと根本的な問題は、私たちが作り上げた社会モデルであり、政治の在り方だということを分かって頂きたいのです。見直さなければならないのは、消費社会そのものなのです。

 

参考資料
  1. UNDP:Human Development Report 2014,http://hdr.undp.org/en/content/human-development-report-2014
  2. http://tabi-labo.com/105148/presidente-mujica-rio/ より抜粋.

 

(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)

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