ローマは1日にして滅びず:ガブリエルとオルテガをめぐって(荒田 鉄二)

※ この記事は、KIESS MailNews 2018年12月号~2019年8月号に掲載したものです。

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「ローマは1日にして成らず」と言われますが、これは逆方向にも言えるのだと思います。「ローマは1日にして滅びず」と。何でこんなことを書いたかというと、帝政期の古代ローマと同じように、私たちの文明も長期的な衰退過程を経験しているのではないかと思ったからです。

世界は存在しない

このようなことを考えるきっかけとなったのは、最近、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』[1]という本を読んだことにあります[i]。簡単に言ってしまうと、この本でマルクス・ガブリエルは、「世界が存在することを論理的に説明することは不可能である。従って、世界は存在しない」と結論付けています。

「世界は存在しない」ということを論証するに当たり、彼は「存在すること=何らかの意味の場に現象すること」という認識を出発点としています。これが存在の定義であり話の大前提です。そして、全てのものを包摂するものとしての「世界」は、「すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がその中に現象してくる意味の場」となります。しかしながら、「存在すること=何らかの意味の場に現象すること」という定義に従うと、「世界」も存在するためには何らかの意味の場に現象しなければなりません。そうすると、「世界」が存在するためには、それが現象する「意味の場」が必要になり、「すべての意味の場の意味の場」という「世界」の定義に従うと、次には、「世界が現象する意味の場を含む世界」が必要になり、その次には、その「世界」が現象する「意味の場」というように無限後退が続き、結局どこまで行っても全てを包摂するものとしての「世界」は捉えられません。ここからから彼は、「世界」を捉えられないのは、そもそも全てを包摂するものとしての「世界」など存在しないからだと結論付けているのです。

世界内存在
図1:無限後退する世界

ガブリエルは図1を使って「世界」と「世界が現象する意味の場」の入れ子構造が繰り返す無限後退を説明しています。ここで「S1」は内側にある世界が現象する意味の場です。さて、この図において暗黙の裡に想定されていることは何でしょうか。それは世界を外から見ることができるという想定です。しかし、私たちは世界の内側にいるのであり、世界を外から見ることはでません。そして、世界は人間の知り得るものだけから成り立っているとは限りません。例えば、ナメクジは太陽の光が当たると逃げようとするので、ある意味、太陽の存在は知っているといえるでしょう。潮の干満に現れる月による重力の変化も感じ取っているとしたら、月の存在も知っているといえるかもしれません。しかし、ナメクジは火星や冥王星の存在は知らないし、ナメクジがナメクジである限り、将来的にも知ることはないでしょう。それでも火星も冥王星も存在します。人間も同じです。人間の知らないことには二つの種類があるのだと思います。その一つは、今は知らないけれども将来的には知る可能性のあること。もう一つは、人間が人間である限り将来的にも知る可能性のないこと。その将来的にも知る可能性のないことも含めたものが世界なので、私たちには世界の外側の線を引くことはできないのです。

ガブリエルのいう無限後退は、現実には外から見ることができない世界を外から見ることができるかのように頭の中で想定し、世界の外側に線を引いてしまったこと、この想定の誤りがもたらしたものといえるでしょう。彼も「自然科学の世界像」を批判したところでは、「わたしたちには、世界を外から眺めることはできませんし、したがって、わたしたちの作った世界像が妥当なものかどうかを問うこともできません。」と書いています。

またもし、無限後退に関するガブリエルの議論が正しかったとしても、結論は「世界は存在しない」ではなく、次のようなものであってもよいように思います。

「存在すること=何らかの意味の場に現象すること」という前提から出発すると、無限後退となって世界を捉えることができず、世界の存在を説明できない。でも、我々は現に世界の中にいる。だから「存在すること=何らかの意味の場に現象すること」という前提は間違いだ。

私にはガブリエルの議論は「世界は存在しない」ということを示しているというよりは、自己言及性にかかわる言葉の限界を示しているに過ぎないように思われます。私たちは世界の内側にいるのであり、その人間が自分自身を含む世界について語ると、否応なく自己言及的になります。ガブリエルの議論は、「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人が言った」という言明が矛盾しているということから、「だから、そもそも、クレタ人など存在しないのだ」という結論を引き出すようなものに思われます。

言葉(理性)への過信

「世界は存在しない」というガブリエルの議論には、もう一つ暗黙の前提があると思います。それは、「人間がその生において経験する(遭遇する)ことの全ては、言葉によって論理的に説明できる」というものです。だからこそ、「世界の存在は言葉によって論理的に説明できない。だから世界は存在しない」という結論が導き出し得るのです。しかし、何故、「人間がその生において経験する(遭遇する)ことの全ては、言葉によって論理的に説明できる」と言えるのでしょうか。ガブリエルはこの前提の妥当性を説明していないし、そもそもこの前提を明るみに出すこともしていないのですが、上記の前提は間違っていると思います。私は言葉がそのように万能なものだとは考えていません[ii]。

当たり前ですが、人間は人間の知り得ることしか知り得ません。そして、世界が人間の知り得ることだけから出来ているという可能性はほとんどありません。だから、単に経験する、或いは遭遇するという意味であっても、世界について人間が知り得ることには限界があります。そして、「知っている」ということと、「理解している(論理的に説明できる)」ということは別のことなので、知り得ることの限界の手前に理解できることの限界があるはずです(図2参照)。このことが示しているのは、知ってはいても(経験してはいても)、理解できない(論理的に説明できない)ことがあるということです。そして「世界」こそ、正にそのようなものの一つなのだと思います。

図2:知の発展と理性の限界

私たちは「言葉」が何なのかを過不足なく説明できるでしょうか。これはオルテガが言っていることなのですが、もし「言葉」が一般に信じられているように「考えを伝えるもの」だとすると、嘘が成り立たなくなってしまいます。だから「言葉」は、「考えを伝えるものと一般に信じられているが、それだけ・・ではない何か」ということになります。同様に、「存在すること」も「概ね、意味の場に現象することと考えることができるが、それだけ・・ではない何か」ということになるのだと思います[iii]。

そして、理解できることの限界は、物質的な世界のことだけでなく、概念や論理にもあるのだと思います。何故かといえば、人間には理解できてもチンパンジーには理解できない概念や論理があるのだとしたら、同じことが人間にも言えるはずだからです。ガブリエルは、哲学とは「論理による正当化と根拠づけの営み」だとしていますが、だからといって、人間が経験することの全てを言葉によって論理的に説明できると考えてしまうのは早計だと思います。[iv]

素朴な疑問

ガブリエルは、「およそ世界像というものは、何らかの像を結ぶ世界が存在することを前提にしている」が、そのようなものとしての「世界」は存在しないとした上で、次のように述べています。

わたしたちの人生は、様々な意味の場を通過していく動き、それもほかに替えのきかない一回的な動きにほかなりません。意味の場から意味の場へと移動するたびに、わたしたちはさまざまな意味の場の連関を作っていくか、あるいは見出していくわけです。

もし、それが本当だとすると、私が、ある意味の場では「死んだ」としても、別の意味の場では「生きている」というようなことが起こってもよいような気がします。しかし、残念ながらそのようなことは起こりません。それでは、生きている私はどこにいるのでしょうか。生きている私がいるところ、それが「世界」なのだと思います。ある時、望んだわけでもなく、その中に生まれてきて、生き延びるためにもがき、ある日そこから出て行ったら二度と戻って来られないところ[v]、それが「世界」なのではないでしょうか。「私」と「私の環境」を合わせたものが「世界」[vi]であるとすると、「私の環境」は私にとっては他者であり、他者である知らないものに取り囲まれて、それでも何とか生きていかなければならないこと、それが私たちの生の現実なのではないでしょうか[vii]。像を結ぼうが結ぶまいが、説明できようができまいが、現に私たちがその中で生きているところ、それが「世界」であり、その存在を否定するのは非現実的だと思います。

新しい実在論?

ガブリエルによれば、今日の主要な哲学的立場には「自然主義」と「構築主義」の二つがあるそうです。彼は、この双方を批判したうえで、第三の立場として「新しい実在論」を提示しています。

彼によれば、自然主義とは、超自然的なものなど存在せず、世界には自然だけが存在する。従って、存在するのは自然科学の領域へと存在論的に還元され得るものだけであり、それ以外のものは全て幻想にすぎないとする主張です。この自然主義(科学的世界像)に対する彼の批判の一点目は存在論的なもので、彼の「世界は存在しない」というテーゼから導かれるものです。科学的世界像も他の全ての世界像と同様に、何らかの像を結ぶ世界が存在していることを前提としています。もし彼が言うように「世界」が存在しないのであれば、存在しないものについての像である「科学的世界像」も存在しないか、フィクションにならざるを得ないからです。

批判の二点目は認識論的なものです。科学的世界像には特定の視点がなく、「どこからでもないところからの眺め[viii]」を獲得しようとしています。これに対する彼の批判は、「現実を眺めるということは、つねに何らかの地点から行うほかないからです。わたしたちはつねにどこか・・・にいるのであって、どこでもないところ・・・・・・・・・から現実を眺めることはけっしてできません[ix]」というものです。私も、この二点目の批判は的を射たものだと思います[x]。

私の理解する限りでは、構築主義というのは、全ての認識は人間によって構築されたものであり、「誰もが自らの世界を見ているのであって、けっして物それ自体を見ているのではない[xi]」、従って全ては相対的であって唯一不変の客観的事実など存在しないというものです[xii]。構築主義を批判するに際して、ガブリエルは、普遍的な構築主義は存在し得るのかと問うています。彼によれば、普遍的な構築主義とは、「すべての事実は何らかの―まだ正確な詳細は知られていないとしても―認識体系との相対的関係のなかにしかない」というものです。そして普遍的な構築主義の不可能性を次のように説明しています。

そのような主張が正しいとすれば、当然、構築主義についてのいかなる事実も、ひとつの体系、すなわち構築主義それ自身との相対関係のなかにしかないことになります。しかし、そうだとすると、わたしたちは果てしない事実の入れ子状態に陥ることになります。…このモデルでは、すべてのものの相対的関係の準拠先となるものが、結局のところ存在しません。確かにすべては相対的ですが、その相対的なもののすべてが何らかの終極的なものと関係を結ぶという事態は、ついに成立しません。相対的なものの果てしない連鎖が、いわば宙に浮いています。普遍的な構築主義とは、全ては相対的なものであるというテーゼのはずでした。ここから導き出されるものが、すべてのものの相対的関係の準拠先が存在しないということだとすれば、唯一、果てしない入れ子状の事実だけがあることになります。しかし、果てしない入れ子状の事実が存在するということも、やはりひとつの事実には違いありません。…ひとことでいうと、こうなります。すべてが構築されているという事実は、何らかの点で、構築されたものではない事実をともなわざるをえない、と。この事実それ自身もまた構築されたものだとすると、すべては相対的であるという全体性にかかわる言明それ自体が、もはや維持できなくなってしまいます[xiii],[xiv]。

以上を私なりに手短にまとめると、「旧い実在論」としての「自然主義」は、唯物論的一元論をベースとして「世界=物質的な存在としての宇宙」と捉えて、世界には物質的なものしか存在しない。実在するのは素粒子あるいはひも・・の振動であり、それ以外は幻想に過ぎず、世界に意味など存在しない[xv]。そして、物質的な存在である宇宙は、自然科学、なかんずく物理学によって全て説明できると考えています[xvi]。

一方の「構築主義」は、上記のような自然主義の世界像それ自体も、ある文化的・社会的背景(=認識体系)を持った人間によって構築されたものであり、「モノそれ自体」という考えそのものをナンセンスと考えています。何故なら、私たちが「モノ」と呼んでいるものは、私たちが自身の認識体系に基づいて世界を任意に切り取ったものに過ぎないからです。

上記に対して、第三の見方として、ガブリエルの提示するのが、「新しい実在論」としての「意味の場の存在論」です。彼は「新しい実在論」を説明するに際して、まず二つのテーゼを示しています。

テーゼ1:わたしたちは物および事実それ自体を認識することができる
テーゼ2:物および事実それ自体は唯一の対象領域だけに属するわけではない

そして次のように説明しています。

存在しているのは、物質的な対象ばかりではありません。たとえば論理法則や、人間による認識も存在しています。わたしたちは、そのようなものも物質的対象とまったく同じように認識することができるからです。ここでわたしが主張したい新しい実在論は、意味の場の存在論にほかなりません。すなわち、わたしたちが認識するいっさいのものは、それぞれ何らかの意味の場に現象するという主張です。したがって新しい実在論は、実在性概念と認識概念を形成するさい、もはや唯物論的一元論を目標にはしません。

続いて彼は、自身の左手を例にして次のように説明します。

わたしは自分の左手を、今この瞬間には現にこの視点から見ていますが、次の瞬間にはもう(わずかではあれ)ずれた別の視点から見ています。だからといって、そもそもわたしの左手は存在しないと結論するか、さもなければ、いろいろの視点から見られていることとはまったく別に左手それ自体が存在するのだと結論するか、どちらかを選ばなければならない理由があるのでしょうか。ポイントは、物はそれ自体が多様な仕方で現象するということです。それらの現象のいずれもが、それ自身、一つひとつの物それ自体にほかなりません。そのさい重要なのは、どのような意味の場に現象するかということです。現象する仕方が複数あるからといって、それが幻想だということにはなりません。現象とは別に存在するハードな事実がこの現象をなしているのではなく、いわばさまざまな物それ自体その現象ともに・・・この現実をなしているのです。そのさい、それぞれの現象はいずれも物それ自体です。わたしに対して現れてくるわたしの左手のさまざまな現象は、いずれも左手それ自体と同じように実在的なものです。物それ自体は、いつでも何らかの意味の場に現象するほかありません。ということは、物それ自体が、すでに何らかの事実のなかに埋め込まれているということです。わたしたちが残像を見ているにすぎない場合、あるいは緑色のリンゴの幻覚を見ているにすぎない場合であっても、やはり事実が―たとえば、わたしたちが現に緑色のリンゴの幻覚を見ているという事実が、―あることに疑いの余地はありません。緑色のリンゴの幻覚を見ているということは、緑色のリンゴの幻覚を見ているという幻覚を見ているということと同じではありません。

以上のような議論を背景として、新しい実在論はこう主張します。真である認識は、いずれも物それ自体(あるいは事実それ自体)の認識である、と。真である認識とは、幻覚でも幻想でもなく、物ごとの現象そのものだからです。

上記のガブリエルの議論は、誰もが経験できる直接的事実(主観的事実)に基づくものであり、その点は評価できると思います。問題は、この議論が「新しい実在論」と呼ぶほどの「新しさ」を持っているのかという点です。

生の哲学

私は1年生の学生を対象に前期に開講される「環境学概論」という講義を担当しています。その第1回目で、「環境保護の意味」を考える際に、以下のような話をしています。

人間の認識については、次の三つの説がある。

 

  1. モノは人間が見ている、見ていないに関係なく、それ自体として独自に存在し、それがあるとおりに人間は知ることができる。
  2. 人間が見ていないときにモノが存在するかは疑わしい。しかし、モノの存在を疑っている自分(我)が存在するのは確かである。モノ自体なるものは存在せず、それは人間の生み出した観念に過ぎない。
  3. 認識とは、観察する主体(我)と観察される客体(モノ)の間に起こるできごとである。従って、認識は客体の性質に依存するのと同様に観察する主体の性質にも依存する。

1.は「実在論」と呼ばれ、2.は「観念論」と呼ばれている。この二つは哲学の世界を二分してきた代表的な考え方であるが、双方とも難点がある。

 

実在論の難点
認識をカメラに写真が写るようなものと考える「実在論」は、認識になぜ誤りが生じ得るのかを説明できない[xvii]。

 

観念論の難点
実在するのは意識(思考する存在)としての我だけであるとする観念論は、我が生み出した観念に過ぎない肉体が事故にあった際に、なぜ意識を失うことが可能なのかを説明できない[xviii]。

 

3.は「生の哲学」と呼ばれるもので、ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの影響を受けて、スペインの哲学者ホセ・オルテガによって定式化された。「生の哲学」では、人間の認識を次のようにとらえている。

 

  • 人間は未知のモノからなる世界の中に自らを発見する。
  • そこで生きていくためには、自分の前にあるモノが何であるかを知らなければならない。
  • 人間はモノが何であるかについて解釈(説明)を与え、それを頼りにして生きていく。
  • モノの存在とは、人間が生きていく上での必要に迫られてモノに与えた解釈である。

この「生の哲学」のものの見方は、ユクスキュルの提唱した「環世界(Umwelt)」という見方に根差している。それは、「それぞれの生き物にはそれぞれの環境がある」というものである。そこでは、主体と環境は「主体=環境系」を形成しており、両者は「図と地」の関係と同じで切り離すことができない。生物とその環境との関係を取り扱う生態学は、「主体=環境系」という「生の哲学」と同じものの見方をしている。

 

実在論は、「人間のいる、いないに関係なく、モノはそれ自体として存在し、人間はそれがあるとおりに客観的に認識することができる」とし、観念論は、「モノの存在とは人間が生み出した観念であり、モノそれ自体というものは存在しない。従って、客観的認識は不可能である」としている。一方は、客観的認識は可能であると主張し、他方は、客観的認識は不可能であると主張して、両者は対立している。しかし、共に主観的認識(事実)は当てにならないという点に関しては一致している。

 

これに対し、オルテガは、主観的認識(事実)こそが当てになると主張した。ここが「生の哲学」の特徴である。オルテガによれば、主観的事実こそが第一の現実であり、それ以外は推測に基づく二次的な現実であるという。例えば、自分の虫歯の痛みは直接的な事実であるが、他人の歯の痛みは推測でしかない。もしかすると、他人は歯の痛いふりをしているだけかもしれないからである。ここでは客観的事実というのは、主観的事実を基に集団的に構成された二次的現実(フィクション)ということになる。

 

世界がどのようなものであるかについての科学的説明も、神話による説明も、どちらも人間が世界に与えた解釈であり、フィクションであることに関して違いはない(神とは、未知の原因を担う存在として人間が考え出したものと思われる)。しかし、自然科学には仮説と検証のループが内蔵さてれており、フィクションである仮説の現実世界における有効性が日々確かめられている。自然科学は、世界について、私たちが生きていく上で頼りにすることのできる説明(解釈)を与えてくれる。

 

「生の哲学」では、モノの存在は目的論的に根拠づけられる(モノの目的論的存在)。未知のモノは人間にとって常に問題であった。そこで、問題を解決するために人間はモノに存在(解釈)を与えてきた。例えば、ライオンには「危険な動物であり、避けた方がよいもの」という存在を与えた。モノは人間にとって常に「~のためのもの」として存在してきた。食べるためのもの、座るためのもの、見て楽しむためのもの、それ自体に内在的価値があるとして評価するためのもの、…など。人間にとって何の意味もないものは、そもそも認識されない。例えば、ニュートリノは、宇宙の成り立ちを説明するために、その存在を想定することが必要になったからこそ発見(認識)されたのである。

 

誤解を避けるために、「観念論」と「生の哲学」の違いを再確認する。「観念論」は、「モノそれ自体というものは存在しない」と主張している。それに対し、「生の哲学」においては、モノの存在は否定していない。「生の哲学」は、「モノは、それが人間にとって何であるかということでしか知り得ない」と主張している。

 

認識とは、認識する主体(人間)と認識される客体(モノ)との間に起こる現象(できごと)と捉えることができる。従って、認識は、認識される客体の性質と同様に、認識する主体の性質にも依存する。モノが何であるかを知るためには、モノに働きかけなければならない。「生の哲学」においては、認識はカメラに画像が写るような受動的なプロセスではなく、主体が客体に働きかけることによる能動的なプロセスと捉えている[xix]。

 

自然体験などの場では、参加者がカエルになった自分を想像するような設定がされる場合がある。しかし、人間である自分がカエルになったとしたらどう感じるかを想像することと、カエルがカエルであることをどう感じているかということは全く別のことである[xx]。人間の感覚を持ったまま、小さなカエルになった状況を想像しがちであるが、カエルの感覚は人間とは異なる。我々が知っているのは人間から見た世界であり、カエルにとっての世界がどうであるかは知りようがない。

 

さて、環境とは何なのだろうか。人間が直接的に知っているのは人間にとっての環境だけである。他の生物にとっての環境というのは想像でしかない。そうだとすると、環境を守るというのは、結局のところ、人間の環境を守るということ以外ではあり得ないことになる。これは、それしか知らないのだから仕方がないといえる。

 

生態学においては、主体を特定しない環境という概念には意味がない。生態学においては、環境とは、常に「○○の環境」ということになる。一般に環境保護といったときに、暗黙の裡に想定されている主体は人間である。結局のところ環境保護とは「人間の生存にとって都合の良い環境を守る」ということを意味しているように思われる。そして、他の生物は「人間の生存にとって都合の良い環境」の構成要素ということになる。

 

人間を特別な存在と位置づけ、「自然は人間が利用するために存在する」という考え方を人間中心主義という。人間中心主義が自然の中に認めるのは、人間にとっての利用価値であり、それ自体の内在的価値ではない。人間中心主義の立場では、自然環境を保護するのは自然の生態系サービスを維持する為であり、それが人間の長期的利益につながるからということになる。

 

人間を特別な存在と位置づける人間中心主義は、人間の傲慢さの現れであり、それが環境破壊の根本原因であるとして批判されてきた。しかしながら、「環境を守る」ということは、結局のところ、「人間にとっての環境を守る」ということでしかあり得ないのかもしれない。何故なら、人間が主観的事実として直接的に知っているのは、「人間自身」と「人間にとっての環境」だけだからである。そうすると、「人間にとっての環境」(人間から見た世界)しか知らない人間が、人間中心主義を免れ得ると考えることもまた、人間の傲慢さの現れなのかもしれない。人間が自然を支配しようとしても、保護あるいは自然と共生しようとしても、人間が人間以外の存在に対して人間の意志を押し付けているという構造には違いがない。それにもかかわらず、「自然を保護」あるいは「自然と共生」しようとすれば「人間中心でなくなる」と考えるのは、確かに傲慢かもしれない。

 

以上をまとめると次のようになる。生態学は「主体=環境系」というものの見方をしている。環境学は、この生態学をベースとしている。環境学において暗黙の裡に前提とされている主体は「人間」である。従って、「環境にやさしく」といったときの「環境」は「人間にとっての環境」を意味している。「主体=環境系」としての「人間」と「その環境」は、コインの裏表と同じようなものであり、切り離すことはできない。従って、「環境にやさしく」ということは、同時に「人間にやさしく」ということでもある。逆に言えば、「人間にやさしく」するには「環境にやさしく」するしかない。それが「環境保護」の意味である[xxi]。

さて、以上はオルテガの「生の哲学」をベースに私が考えたことなのですが、ガブリエルの言っていることは、使っている用語[xxii]こそ違いますが、オルテガの言ったこととよく似ています[xxiii],[xxiv]。この点は評価できる点でもあるのですが、残念なのは、ガブリエルの本がオルテガの死[xxv]から60年近くたってから書かれたものだということです。そして、それにもかかわらず、現実世界のなかで生きていく上で頼りにできるものとして、オルテガが「生の哲学」として語ったことに付け加わるものが何も見当たらないのです。いったい、この本は、21世紀前半という「時代の高さ」に達しているのだろうか。これが、私がこの本を読み終わったときに感じたことでした[xxvi]。

知の衰退

もし、ガブリエルの本が「時代の高さ」に達していなかったとしても、それだけなら別に文明の衰退を心配するには及ばないのですが、同じような残念な印象を持ったことが以前にもあったので、もしかするとエリート層の間で全般的な知的水準の低下が起こっているのではないか、と心配になってきたのです。以前に残念な印象を持った本というのは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』[2]です。この本もガブリエルの本同様、それ自体としては、なかなか面白い本なのですが、2011年に書かれたものであるにもかかわらず、進化の場面を生物学的側面から文化的側面に移した生き物であるというヒト(ホモ・サピエンス)の本質に関して、1976年にジャック・リュフィエが『生物学から文化へ』[3]で語った以上のことは何も書かれていなかったのです[xxvii]。

エリート層の知的水準の低下が気になった私は、1961年1月のアイゼンハワーの退任演説と2017年1月のオバマの退任演説を比べてみることにしました。アイゼンハワーは退任演説の中で4つの警告を発しています。① 軍産複合体が不当に権力を持つことのないよう警戒せよ。② 本来自由であるべき学問研究が、研究予算の配分を通じて政府のコントロール下に置かれ、政府のための研究になってしまうことを警戒せよ。③ また逆に、公共の政策が科学技術エリートによって乗っ取られてしまうことのないよう警戒せよ。④ 今日の安楽と利便のために、未来から略奪してはならない。アイゼンハワーの演説の中心には「バランス」という概念があります。①は、防衛力の必要性と軍産複合体の肥大化とのバランス。②は、学問自体の変化による研究の巨大プロジェクト化と学問の自由とのバランス。③は、公共政策を支える科学技術の必要性と民主主義とのバランス。④は、現在世代の利益と将来世代の利益の間でのバランス。④の部分の翻訳は次のようなものです。

バランスを維持することにおける別の要素は時間です。私たちが社会の未来を見つめるとき、私たち—あなたと私、それに政府—は、自らの安楽と利便のために、未来の貴重な資源を略奪して今日だけのために生きるという衝動を避けなければなりません。私たちは、孫たちの世代に属する物質的な資産を抵当に入れることは出来ませんし、それは政治的、精神的な遺産についても、その損失を要求することになってしまいます。私たちは民主主義がすべての未来の世代において存続することを望んでおり、それが明日は破産してしまった見せかけのものになることを望みません。[4]

これは、「持続性」ということが言われる遥か以前に語られたものです。

これに対してオバマは、民主主義とそれを維持することにおける議論の重要性、人々を分断するのではなく連帯することの重要性を訴えているのですが、今一つ具体性がありません。簡単に言ってしまえば、「みんな仲良くして、他人の話をちゃんと聞けば、私たちはできる(Yes, we can)」と言っているのですが、何をせよと言っているのかよくわかりません。 以下は、オバマの退任演説の終りの方からの引用です。

ジョージ・ワシントンは辞任の挨拶でこのように記しています—自治とは私たちの安全、繁栄、そして自由の土台となるが、さまざまな原因、さまざまな立場から多くの苦痛がもたらされ、心のなかにこうした真実への確信が揺らぐこともある。それに対して私たちは油断することなく自治を維持し、この国のある部分を排除したり、連帯の神聖な絆を弱めたりする、あらゆる試みの兆しを拒絶するべきだ。


政治的対話が陳腐なものになり、善良な人が公職から遠ざかってしまうと、こうした絆は弱まります。政治的対話が悪意をもって粗雑なものになると、私たちとは違う意見を持つアメリカ人たちが単に誤った方向に導くことになるだけでなく、害悪となります。一部の人間が他の人間よりもアメリカ人らしいと定義すると、こうした絆は弱まります。システム全体を、腐敗はつきものだと決めつける、そして私たちが選んだリーダーを、彼らを選んだ自分の役割の検証もせずに傍観し、非難しているとそうなるのです。

私たち一人ひとりが、慎重で懸念を持った民主主義の擁護者になるのです。私たち一人ひとりが偉大な国家をより良くし続けるために、私たちに与えられた喜ばしいタスクを受け入れることです。私たちはすべて外見上の違いがあるから、私たちは同じ誇り高き称号を、民主主義の中で最も重要な役職を共有できるのです。それは、市民です。市民なのです。


そう、ご存じでしょうが、それこそ私たちの民主主義が求めているものなのです。民主主義はみなさんを必要としています。選挙の時だけではなく、自分の狭い利害関係が関わる時だけでもなく、みなさんが生涯にわたって参加する必要があるのです。インターネット上で見知らぬ人と議論するのに飽きたなら、実生活で人と話をしてみてください。何かを修正する必要があるのなら、靴紐を締め直して、何かを始めましょう。選ばれた政治家に失望しているのなら、クリップボードを手にし、スローガンを掲げ、自分自身で立候補してみてください。

表に出よう。飛び込め。続けるんだ。[5]

私は最初、20世紀後半から21世紀の前半にかけて、エリート層の間での知的水準の低下が起きているのではないかと考えたのですが、アイゼンハワーとオバマの退任演説を比べて気づいたのは別のことでした。私はオバマの個人的な資質がアイゼンハワーに劣るとは思いません。大統領の退任演説は、若い人からお年寄りまで、全てのアメリカ人に向かって語りかけるものです。このため、オバマは、多くのアメリカ人に理解してもらうには、あのような話をするしかなかったのです。もし、オバマがアイゼンハワーのような話をしたら、今のアメリカ人にはほとんど理解されなかったでしょう。今起きていることは、単にエリート層の知的水準の低下ではなくて、社会の全般的な知的水準の低下なのではないでしょうか。ユヴァル・ノア・ハラリの本やマルクス・ガブリエルの本は、「時代の高さ」に達していないのではなくて、「時代の高さ」が下がった結果、ちょうどその水準にあるのだと思います。だからこそベストセラーになったのでしょう[xxviii]。

エリート層も含めて、社会の全般的な知的水準が下がった理由も何となく分かるような気がします。私の世代ではテレビ、その後の世代ではテレビゲームにスマホ。1日の中で、これらに使う時間が増えたため、深く考える時間が減り、その結果として人生の中のある年齢までに到達できる知的水準も下がった。そういうことなのだと思います[xxix]。

これと並んで、やたらに移動することも現代人の知的水準を下げている一つの要因だと思います。移動が速く便利になった結果として、移動に使う時間が減ったかというと、結果は逆で、現代人は一生のうちで移動に費やす時間が増えているのだと思います。中身が2時間の会議のために、その倍の時間を移動に費やすというのは、今日ではよくあることです。交通が不便だった時代の人は、そもそもあまり移動しなかったので、今の人が移動に費やしている時間も深くもの考えるために使っていたのだと思います。もしかすると、マックス・ウェーバーやアルベルト・アインシュタイン、ジークムント・フロイトが活躍した20世紀前半が知的水準の最高到達地点で、今後はもう、彼らのような人たちは現れて来ないのかもしれません。

人生の意味

さて、人生に意味はあるのでしょうか。ガブリエルは次のように述べています。

人生の意味の問いにたいする答えは、意味それ自体のなかにあります。わたしたちが認識したり変化させたりすることのできる意味が、尽きることなく存在している―このこと自体が、すでに意味にほかなりません。ポイントをはっきりさせて言えば、人生の意味とは、生きるということにほかなりません。つまり、尽きることのない意味に取り組み続けるということです。幸いなことに、尽きることのない意味に参与することが、わたしたちには許されています。

言葉の上では、この答えは同語反復に思えます。「生きることの意味は何か」という問いに対して、それは「生きることだ」と答えているようなものだからです。また同時に、「人間は意味を認識するとともに意味を探求する存在であり、意味を探求することが人生の意味である」というようにも読めます。本の始めの「哲学を新たに考える」のところで、ガブリエルは次のように述べています。

すべてを記述し尽くす世界の規則や公式は、たんに存在しません。それは、わたしたちがそのようなものをまだ見出していないからではありません。そのようなものがそもそも存在しえないからです。

私は、彼には上記と同じような大胆さをもって、「人生に意味などない」と言ってしまって欲しかったです。人間は記録にある限りでも、古代ギリシャ以来、「人生の意味」を問い続けてきましたが、未だにこれといった答えには辿り着いていません。私は、その理由は、「そもそも、そんなものはないからだ」と考えています。私には、ガブリエルは、「人生に意味があって欲しい」という自身の願いを満たすために、「人生に意味はある」という答えを無理やりに捻り出してしまったように思えます[xxx],[xxxi]。

私は、「生まれながらに誰にでもある」というようなものとしての「意味」は、人生には「ない」と考えています[xxxii]。そういう訳なので、人生の意味を探すのは無駄だと思います。人生の意味は、生まれながらに元々あるものではなく、意味が欲しければ、自分で創り出して自分に与えるものと考えています。

人生の意味は、自分で創り出して自分に与えた人にはあるし、自分に与えられなかった人、あるいは自分に与えようとしなかった人にはない。そういうものだと考えています。因みに、私自身は、特に自分の人生に意味を与えようとは思っていません。無意味な人生を無意味なものとして生きる[xxxiii]。それで十分だと思っています。これは結構気楽なものです。人生に意味がなければ、失うものもありません。だから、何かを恐れる必要もありません。

これと関連があるのかないのか分かりませんが、私は自分探しもしないし、幸せ探しをするつもりもありません。自分探しをしないのは、今の自分とは別に本当の自分がいるなどとは考えていないからです。好きだろうが、嫌いだろうが、今の自分が自分であり、それを受け入れないのは現実逃避に過ぎません[xxxiv]。問題は、今の自分を受け入れた上で、どちらに向かって進むのか、その点にあるのだと思います。

幸せ探しをしないのは、良い人生かどうかと、幸せかどうかは関係ないと思われるからです。キリストは十字架にかかって死にました。だから、幸せという観点からすると、必ずしも幸せな人生だったとはいえないと思います。ゲバラも最後は処刑されて死にました。これも幸せな人生とはいえないでしょう。でも、悪い人生だったかといえば、そんなことはないと思います。キリストはキリストとして、ゲバラはゲバラとして、やるべきことをやったのです。私たちは独りで生きているわけではないので、人生に起こるすべてをコントロールできるわけではありません。良かれと思ってやったことが良い結果になることもあるし、悪い結果になることもある。幸せになるかどうかは、自分ではコントロールのできない巡り遭わせの結果のように思われます。自分ではコントロールできないことに関して、あれこれ思い悩むのは時間の無駄だと思います。死すべき運命を生きる者の心構えとして、マルクス・アウレリウスは、「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。」[6],[xxxv]と書いています。私は、アウレリウスの教えに従って、なるべく「目の前にあるやるべきことをやる」ように心がけています。そして、少なくとも今のところは、人生の意味を探求するために時間を使うのは、自分のやるべきこととは考えていません。

「人生が意味を持ち得る」ということと、「誰の人生にも、生まれながらに意味がある」というのは全く別のことです。ガブリエルの議論は、この二つを区別していない点で不十分だと思います。

自由と責任の復権

人間は、物質的存在であるとともに、生物学的存在でもあり、また、精神的存在でもあります。物質的存在としての人間には「意味」は関係ないでしょう。それは、物理学の世界(意味の場)には「意味」という語彙の居場所はないからです。生物学的存在としての人間にとっても同様です。「意味」が問題になるのは、精神的存在としての人間だけだと思います。しかしながら、そこにも、生まれながらに誰にでもあるというようなものとしての「意味」はないでしょう。遺伝子コードを持っている生物学的存在としての人間とは違って、精神的存在としての人間には、あらかじめ与えられているものは何もないからです[xxxvi]。この点で、構築主義は、ある意味で正しいことを言っているのだと思います。ただし、生物学的存在としての人間の外界認識に関しては、構築主義は当たっていないと思います[xxxvii]。物質的存在としての人間についていえば、それは生きていても死んでいても同じです。物理学は生命を説明できないし、精神的存在としての人間を説明することは、なおさら無理でしょう[xxxviii]。

死んだ世界である物理学的世界は、因果の連鎖からなる「必然」と、ランダム現象としての「偶然」からなっています。ここでは、「責任」を問うことに意味はありません。責任は、「選択の自由」があることを前提としています。物理学者の中には、「選択の自由」は人間がそう思っているだけで、幻想に過ぎないと言う人もいるかもしれません[xxxix],[xl]。しかし、この世界には、生物というレベルになって初めて起こる現象もあれば、精神というレベルになって初めて起こる現象もあるのです。では、人間以外の生物にも選択の自由はあるのでしょうか。選択の自由が存在するためには、単に何かを知っているだけではなく、自分が何かを知っているということを知っている必要があるように思われます。もし、チンパンジーやカラスが、自分がエサの在り処を知っているのに、そのことを仲間に隠したとしたら、それは、自分が何かを知っているということを知っていることになり、私たち人間と同じような自己意識があるということになると思います。そうなると、彼らもまた精神的存在であり、「選択の自由」を行使した行為の結果に対して、責任を取ってもらわなければなりません[xli]。

話は少々横道に逸れましたが、ガブリエルは、自然科学が世界から抹殺しようとした「意味」を復権させようとしているのだと思います。「意味」の復権は、同時に「自由」と「責任」の復権でもあります。物理学の世界には、道徳的なこともなければ、不道徳なこともありません。しかし、精神的存在としての人間の世界には、道徳的なこともあれば、不道徳なこともあり、自由もあれば、責任もあります。

確かに精神的存在としての人間は、生物学的な基盤を持っています。また、生物は物質的な基盤を持っています。だからといって、生命や精神のレベルで起きている現象が物理学によって説明できるわけではありません。電子的に記録されたコンピュータのプログラムは確かに物質的基盤を持っています。しかし、その仕組みを知っているからといって、プログラムが解読できるわけではありません。プログラムを理解するにはコードを知っている必要があります。たとえ、コードを記録するためには人間の脳みそを含めて物質的な基盤が必要だとしても、コード自体は物質ではありません。

ここからは、少々残念な逆方向の類推も成り立ちます。ハードウェアという物質的基盤なしのコンピュータを想像できるでしょうか。残念ながら、真空中で計算して答えを出してくれるコンピュータというのは存在し得ないでしょう。ここから類推できるのは、生きた人間の体という物質的・生物学的基盤なしの魂もまた、存在し得ないということです。だから、死後の魂は存在しません。私たちは、死後どこか別の世界に行くのではなく、ただ消え去るのです。生命というのは水の流れの中の渦のようなものといえるでしょう。渦は水が流れていなければ存在しません。同様に生命も、低エントロピーの物質・エネルギーの流入と、高エントロピーの物質・エネルギーの流出がなければ存在しません。この流れが止まった時、生物の体は単なる物質になり、エントロピーの法則に従って分解され、秩序を失っていきます[xlii]。この流れが止まること、それが「死ぬ」ということで、それと共に精神的存在としての私たちもまた消え去るのです。私の体だった物体は残るかもしれませんが、それはもはや私ではなく、そこに私はいません。私たちの「1回きりの人生」というのは、そういうものなのだと思います[xliii],[xliv]。

歴史的理性

ガブリエルも言うように、私たちは世界の内側にいるのであり、自分を含む世界を外側から見ることはできません。私たちも世界の中での相対運動の一員であり、自分がどちらに進んでいるのかを知るための不動の基準点を持つことはできません。だからこそ、私たちは度々失敗を犯すのです。しかし、ある程度の時間的距離をとって過去の出来事を見れば、そこそこに妥当な判断をすることができます[xlv]。

例えば、今現在の日本で、1941年12月にアメリカと開戦したことが妥当な判断だったと考える人はいないでしょう。また、太平洋戦争で犠牲になった日本人310万人のうち、その8割が最後の1年間に死んだということが分かっている今日において、1945年8月15日まで降伏を引き延ばしたことを妥当な判断だったと考える人もいないでしょう。このことは、私たちは、ある歴史的瞬間、その時点、その時点での判断は往々にして間違うことがあるにしても、後知恵を含めて歴史的に判断すれば、おおむね妥当な判断ができるということを示しているのだと思います。

アメリカがマンハッタン計画に着手したのも、当時としては合理的な判断だったのかもしれませんが、核兵器廃絶を目指す現在においては、多くの疑問が呈されています。ある瞬間だけを見た合理的判断よりも、過去を踏まえた歴史的判断の方が当てになる[xlvi]。これが、オルテガの言うところの「歴史的理性」なのだと思います。歴史的理性を働かせるためには、過去の歴史を理解し、それを踏まえた上で、オルテガの言うところの「時代の高さ」に立っている必要があります。

過去の歴史は、これから何をしたらいいかは教えてくれませんが、何をしたらダメかは教えてくれます。そして、過去を忘れるということは、その過去が起こる前に逆戻りすることであり、また同じ過ちを繰り返すことになります。だからこそ、ドイツでは、ナチの戦争犯罪に関する負の歴史が、これでもかというほど、目に見える形で残されているのだと思います。過去を忘れて水に流すことの好きな私たち日本人は、歴史的理性を働かせることが出来るのでしょうか。毎年8月になると、戦争関係の番組がテレビで放映されるのですが、それは大抵1945年3月10日の東京大空襲から8月15日までの戦争被害の話で、それ以前の話はほとんどありません。太平洋戦争のアジア・太平洋諸国での犠牲者数は2,000万人以上に上るそうなのですが、その犠牲がどのようにして起こったのか、私はほとんど知りません。これは多くの日本人にとっても同じだと思います。私は、歴史的理性を働かせるためには、「加害の歴史」も「被害の歴史」と同じように伝えるべきだと思うのですが、加害の当事者が既に亡くなってしまった今となっては、その機会は永遠に失われてしまったのかもしれません。

野蛮人の垂直的侵入

「野蛮人の垂直的侵入」というのは、古代ローマは蛮族が外部からローマ領内に侵入したことによって滅んだのではなく、ローマ人自身が野蛮化したことによって、内部から崩壊したのだ、という話です。トランプ大統領と議論を受け付けないその支持者達、ヨーロッパにおける極右政党の台頭、日本におけるお役所の不祥事の連続などを見ていると、現代文明においても「野蛮人の垂直的侵入」が起きているような気がするのですが、いかがでしょうか。

人間の祖先も始めは生物学的存在として、「偶然」と「必然」の世界に生きていました。そこから精神革命とでも呼べるような大きな飛躍があって、人間は自己意識を持った精神的存在になりました。多分、この時から人間にとって「自由」が重要になったのだと思います。そして、自由を確保するために、歴史のなかで紆余曲折を経ながら、「力の支配」から「法の支配」、そして「民主主義」へと進んできたのだと思います。法の支配は、一部の力のある者から弱い者を収奪する自由を奪いますが、その代わりに多くの人の自由をより確かなものにします。

ダボス会議などでグローバル経済のルールが話し合われていますが、そこに集まっているのは、現にグローバル経済の中で力を持っている人達であって、民主的な選挙を通じて選ばれた人達ではありません。そして、各国の政府は、国際競争力確保という観点から、力のある人達によって決められたルールに従わざるを得なくなります。その結果、各国で格差が拡大しているのですが、より多くの人の自由を確保するために、強い者の力を制限するのが「法の支配」であり、それが文明化(civilization)であったとすると、今起きていることは明らかに退行現象です。

アイゼンハワーの時代のアメリカには、危険に晒されているとしても、まだ民主主義がありました。だからこそ、アイゼンハワーは、それが失われないように警告していたのです。これに対し、オバマの演説から分かることは、彼が、民主主義が単なる多数決に堕してしまった時代の大統領だったといことです。民主主義は、力ではなく話し合いを通じて合意を形成するための仕組みであり、単なる多数決ではありません。民主主義が議論抜きの単なる多数決になってしまったこと。これもまた、文明の退行現象なのだと思います。

日本では、憲法を改正して軍隊を持てるようにするという議論がされていますが、これもまた退行現象だと思います。実際に戦争や武力衝突が起こっている世界のなかで、戦力を一切持たないというのが非現実的だというのは真実だと思います[xlvii]。でも、非現実的で何が悪いのでしょうか。憲法9条は、「戦争のない世界を目指す」という人類の理想の表明であり、理想であるからには非現実的に決まっているのです。既にして現実的であったとしたら、それは理想ではありません。もし日本が憲法9条を変えたとしたら、それは単に日本の問題というよりは、平和な世界を目指す人類の歴史的な挫折であり、ニール・アームストロング風に言えば、「人類にとっての、後ろ向きの巨大な一歩」ということになるでしょう。

ローマ帝国の崩壊後、旧帝国領を支配下に置いたゴート族などのゲルマン人は、ローマ人の法律家を殺したそうです。その理由は、彼らには、なぜ強い者が弱い者から奪ってはいけないのか、それが理解できなかったからです。このため、力で処理できる問題を法律に従って処理しようとする法律家の存在に我慢がならなかったのです[xlviii]。日本が憲法9条を変えて軍隊を持つとしたら、それは最早、私たち日本人が、国際社会や国際法を信じてはいないということを表明することになります。法の支配から力の支配へ、これは明らかに文明の退行現象です。現代文明は、これから滅びるのではなく、既に衰退過程にある。現状は、そういうところなのだと思います。

おわりに

現代社会は、個々の人間を、グローバル経済という巨大システムに組み込まれた部品のようなものにしています。部品には、議論することも、意見を持つことも、判断することも期待されていないので、このまま「議論の消滅」という形で野蛮化が進んでいくのでしょうか。私には、一つの希望があります。それは化石燃料時代の終焉です。

マックス・ウェーバーは、政治における官僚制と経済における資本主義が近代社会の両輪だと述べています。この両輪に支えられた近代システムは、人間が作ったものなのですが、今では「鋼鉄の檻」のようなものになってしまっていて、誰もそこから逃れることはできません。ウェーバーは、近代社会の運命について、次のように述べています。

ピュウリタンは天職人たらんと欲した―われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人―直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく、―の生活スタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう[7],[xlix]。

そして、近代人の往く末の姿を、次のように描いています。

精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と己惚れるだろう。[l]

今の状況は、間違いなくこうなる途上にあり、このまま行けば本当にこうなるのでしょうが、幸いなことに私たちは、脱炭素化を進めざるを得ない時代に生きています。ピークオイル説のように化石燃料が枯渇するのか、あるいはその前に、温暖化抑制の必要から、たとえ化石燃料があったとしても燃せないのか。何れにしろ、近いうちに化石燃料は使えなくなります。そうすると、ウェーバーの予言が当たっているとすれば、私たちには「鋼鉄の檻」から抜け出すチャンスがあるのです[li]。

私はマルクス・ガブリエルやユヴァル・ノア・ハラリが野蛮人だと考えているわけではありません。ただ、先人の成果を踏まえていない点を残念に思っているだけです[lii]。歴史的存在である人間にとって、過去を踏まえないことは歴史の逆戻りであり、退行現象ということになるからです[liii]。オルテガも言うように、進歩することもできれば、退歩することもできるのが人間です。人間が人間である限り、偶然と必然だけの世界に戻ることはないにしても、できれば「力の支配」に逆戻りすることなく、自由をより確かなものにする方向に進んでいきたいものだと考えています[liv]。

最後ですが、もし「人間として生きる」とはどういうことかについて、哲学的に考えてみたいという人がいたら、オルテガの『形而上学講義』[8]を読むことをお薦めします。本文は180ページで、訳者のおかげか、堅苦しい哲学用語ではなく、わかり易い日本語で読むことができます。

2018年9月11日
荒田鉄二

(あらた てつじ:KIESS理事・鳥取環境大学教授)

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