「幸せ指標」とは何か(内藤 正明:MailNews 2017年7月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2017年7月号に掲載したものです。

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幸せ指標への関心の高まり

いま内外の各地で新たな「豊かさ指標」作りが試みられつつある。これまでは経済の指標としてのGDP(GNP)が、社会の豊かさを示す唯一の指標として使われてきたが、近年は経済に代わる、豊かさが大事ではないかと言われ始めたためである。しかし、経済的な豊かさ以外を測る指標がこれまで確立されてこなかったので、“現代の社会の豊かさ”を示す新たな指標の開発に関心が高まってきた。しかし、いろいろ検討がされてきたが、これが決定版というものはまだ見られないようである。

 

主観量を指標化する難しさ

その理由はいくつも考えられるが、第一に「新たな豊かさ」といった時に、主観が関わってくるので、これをどう定量化するかが難しい。そこで、私などは指標研究をしてきた過程で、豊かさ感といった主観的な評価を「意識調査(好きー嫌い、望む―望まない)などで把握し、一方それに影響すると思われる客観的な諸量(町内会活動数、公園面積、など)と統計的に関係づけて、指標の式を作ることを提案してきた。この考え方は、本稿の最終段階で議論することになる「幸せとは何か」に関する哲学的な議論と関係することになる。

 

幸せ指標は地域固有のもの?

主観的な評価が基になると考えるなら、これは地域社会の価値観によるので、地域固有のものとなる。それはそれで地域の将来を計画するなどに役立つが、他地域との相互比較とか、全国的な評価指標としては使えない。その場合、日本人全体の価値観を平均値として把握して、全国指標とすることもできるが、そもそも幸せ感をとらえて、それをどう利用するのかによる。今日求められているのは、地域の計画づくり、その進行管理に役立つ指標であるから、それについては地域固有であることが、むしろ大事になるだろう。

経済指標は世界中どこにでも通じる普遍的なもので、各国の相互比較や経年的な変化の追跡もできる。それに対応するような人類に普遍の「幸せ指標」をつくるためには、「人の幸せとは」という人類に普遍的な論理を見出さないといけなくなる。それには、「人が感じる幸せの源は何か」という根源から問わねばならないし、さらにそれを突き詰めれば、「人生の意義はどこにあるのか」という難しい課題に行き着くことになる。このことを感じて、誰もがそんな深みに入ることを躊躇してきたので、「幸せ、豊かさ指標」の議論はある段階以上に進まないのかもしれない。

 

普遍的な幸せ感の評価は?

私も、“人生の意義”にまで深入りは遠慮しておきたいと思ってきた。ところが、いま世間で評判の「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)1)の最終章を偶々読んでいると、まさにそのことに話しが及んでいたので、何かの啓示ではないかと、その本の内容を参考に“人が幸せを感じる理由”を自分なりに整理をしてみた。

 

「生物学的視点から」

人の感情は、外的な社会要因ではなく、進化の過程で身に付けた生化学的な仕組みで決まるという考え方である。つまり人が幸せを感じるのは、神経やニューロンさらにセロトニン、ドーパミン、オキシトシンなどの生化学物質によるというのである。

もし、そうであれば、遺伝的には生化学的特性は大きく変化しないので、その特性の低い人は、周りの環境が変わっても、また時代が変わってどれほど社会が進歩・発展したとしても、それほど幸せを感じることはない。その意味では、社会を変えるよりも個人の脳内物質を操作する方が、幸せ感が与えられる。刹那的な外からの影響による、瞬間的な「快と不快」を差し引きした総和が、その人の人生の幸せを支配するとすれば、ドラッグや低次の欲望充足の暮らしによって幸福を与えられる、という「刹那主義」に近づく。

 

「社会的視点から」

時々の外部要因が単に瞬間的に生む快・不快が「幸せ」なのではなく、ある出来事または行動が自らの人生の意義にどう関わるかが、人の幸せ感に大きな役割を果たすということを、ダニエル・カーネマン(2002年ノーベル経済学賞)の研究結果が示している。だから、同じ行動をしても当人がそれを自分の人生にとってどう意義づけるかによって、幸せにも不幸にもなる。その一例として子育てを挙げている。「乳児という独裁者に仕える惨めな奴隷」とみなすか「新たな命を育む無償の愛の行動」と受け止めるかで、同じ行為も幸と感じるか不幸と感じるかが分かれる。

最近の幼児虐待のニュースは、刹那的な「生物的仕組み」からくる「快」が、長期的な人生の意義から来る「幸せ感」以上である親の増加が背景にあるといえるだろう。しかしいまなぜそのような進化過程の「生物的仕組み」に還ろうとしているのだろうか。

 

「宗教哲学的立場から」

信仰によって死後に永遠の至福が訪れると信じていた時代の人々は、現代人より幸せだったに違いない。ブータンの「幸福度指標」に、“信仰”という項目があることの意味が改めて思い起こされる。ただし、科学的な立場に立てば、地球という惑星が崩壊したとしても宇宙は何事もなく続いていくので、永遠の至福などという信仰心は「集団的妄想」に基づく自己欺瞞に過ぎないと、ハラリは言う。その見解から思い出されるのは、カレン・ミーアの言葉“日本人は限られた資源と土地の中で、幸せをpretendする(振りをする、そう自分で思おうとする…)術を身に付けた人達である”と言っている。つまり、幸せ感というのはしょせん自己欺瞞であるということか。

そこで、宗教が大事な役目をする。科学の立場からは、人は遺伝子の目的達成のために操られているとするが、宗教・哲学は全く異なる考え方をしてきた。その考え方は正反対の二つの道筋に分かれる。①西洋的な「ニューエイジ運動」で、“幸せは外部の条件で決まるものではなく、心が何を感じるかによるので、内なる感情に耳を傾けるべき”と主張する。これこそ生物学者の主張とも一致する。②これに対して仏教は、幸せは外部の条件と無関係であるだけではなく、“内部の感情とも無関係”であると説いた。そうでなければ、絶えず幸せと感じられる感情を追い求めて、苦しみ不幸に囚われ続けるだけであるとする。もしこの考えに立つならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが間違っていることになるかもしれないと、ハラリは言う。

 

結論はどうなるか

ここまで深みにはまってしまうと、「幸せ指標」をどうつくるかではなく、幸せを追い求める心から解き放たれる修行の意味を探らねばならないことになる。それはとても難しい課題なので、当面する「幸せ指標」づくりの実用にはならないだろうが、少なくともこの悟りの意味を踏まえながら、もう少し現実的な手順を考えてみる。

  1. 程度の問題はあるが、心の在り様(価値観)を大きく変えることはいまや避けられない時代にきている。その時、「心頭滅却」という、“悟りの境地“までは無理としても、その入り口として、「少欲知足」または”餓鬼道からの脱却“ぐらいは、もう十分受け入れられるだろう。それは、たとえば、ホセ・ムヒカ元大統領の国連での演説、「貧しいというのは、モノを持っていないことではなく、際限なく欲しがることである」が、世界から関心を持たれることからも伺える。なお、この理念は、地球環境の危機を回避して、人類が持続するための前提として不可欠であるから、そのことを社会全体に浸透させる教育・啓発は喫緊の課題である。
  2. その理解に立って、各自が使う資源・エネルギーの上限(環境容量)を科学的に設定する。具体的には脱炭素社会の実現が国際的に合意され、それに参加した我が国としても当然二酸化炭素排出量の厳しい上限を設定し、これを守ることを前提とした中で、社会の幸せを最大化することを考える。
  3. それに向けた社会づくりに関与することが人類持続可能社会づくりの先導役となるという、地域社会の“共通目標(集団的幻想)”として定着させる。そのようにして定着した地域社会の目標に、各自の行動がつながることの“幸せ感”(「人生意気に感じ」ている程度)を測るための、主観的な評価をアンケートなどで把握する。
  4. 幸せ感に影響していると思われる外部条件を、各種の客観データで把握する。なお、この項目選び、その定量把握の方法などに最近多くの工夫がされている。
  5. 得られた主観データと客観データを、主に統計的手法で結び付けて、指標計算式をつくる。
  6. その指標式に則って、幸せ感を向上させるためには、外部条件をどう改善するのがコストパフォーマンスがいいか計算する。

という、聖俗併せた?提案になる。なお、ハマった深みから何を拾い上げてくるのかは、今後の各自の思考に掛かっているので、皆さんからのご教示を期待している。

 

  1. ユヴァル・ノア・ハラリ(著), 柴田裕之 ( 訳):サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福(上・下),河出書房新社,2016.

 

(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)

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